苦難の中にある喜び
皆さん、おはようございます。今日は人生における苦しみについて、そして私たちの目線がどこに向いているかについて考えてみたいと思います。
私たちは、自分では神様を見ているつもりでも、実際にはずれてしまっていることがあります。そのことを今日は一緒に考えていきましょう。
使徒の働き5章を見ていきます。ここでは、使徒たちがイエス・キリストについて語ったことで、宗教指導者たちが怒り、使徒たちを殺そうとしたという出来事が記されています。
使徒たちが語ったのは、イエスを殺した責任は大祭司たちにあるということでした。しかし、同時に彼らは救いのメッセージも伝えていました。「神様はイエス様の血の責任をあなたには負わせません。あなたが悔い改めて神のもとに立ち返るなら、あなたは神から許されます。イエス様の十字架の死が私たちの呪いの身代わりだったのです。」
これは本来、救いのメッセージのはずでした。しかし、宗教指導者たちにとっては、怒り狂うようなメッセージに聞こえたのです。彼らにとって、このメッセージは神殿への冒涜であり、大祭司への侮辱でした。
なぜ彼らはそこまで怒ったのでしょうか。それは、罪を許すのは本来神様の役割であり、それは神殿のいけにえを通して行われるというのが当時の理解だったからです。そして、その役割を担っていたのが大祭司たちでした。
大祭司たちは、自分たちこそが神様と人をつなぐ最も栄誉ある地位を占めていると考えていました。彼らの地位は神様が定めたものだから決して変わることがないと信じていたのです。
そして、その地位には大きな力と影響力が伴っていました。それは良い意味での自信になったかもしれません。しかし同時に、おごり高ぶることにもなり、信仰の目を曇らせることにもなりました。
私たちも同じような危険性を持っています。私たちがどこで何をしていても、本当のところ、何を自分が求めて何を必死に守ろうとしているのか、何を実現しようとしているのか、常に自問する必要があります。
神様に仕え、人に仕えるということを選ぶのは簡単ではありません。いろんなものが私たちを誘惑し、心を奪います。地位や名誉を手に入れるために一生懸命になる日もあるかもしれません。
大祭司たちも、神様に与えられた立場を守ることで、政治を司る力を持ち、経済的な利益も得ていました。そうなった時こそ、真摯に神様の声を求めるべきでした。しかし、彼らにはイエス様の言葉も、使徒たちの言葉も届きませんでした。むしろ、それが彼らを怒らせ、殺意を抱かせるものになってしまったのです。
ここで私たちは大切な教訓を学ぶことができます。神様が定めた制度であっても、神様はそれを刷新していくことがあるということです。
新約聖書では、私たちの大祭司はイエス・キリストであると告白するようになります。大祭司という役割は大切なものですが、本当の大祭司はイエス様なのだと教えられるのです。
神様は常に新しいことをされます。聖霊によって、教会は導かれ、新しくされていきます。私たちの常識と違うことが起こった時、本当のところ神様の働きはどこにあるのかを、怒る前に求めることが大切です。
使徒の働き5章には、ガマリエルという立法の教師が登場します。彼は民全体に尊敬されていた人物でした。彼は議員たちに向かってこう言いました。
「イスラエルの皆さん、この者たちをどう扱うか、よく気をつけてください。先ごろテウダスが立ち上がって、自分を何か偉いもののように言い、彼に従った男の数が400人ほどになりました。しかし、彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、あとかたもなくなりました。その後、住民登録の時にガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました。そこで、今私はあなたがたに申し上げます。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしこの計画や行いが人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、あなたがたは彼らを滅ぼすことはできません。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまうかもしれません。」
ガマリエルは二つの民衆の反乱の例を挙げ、どちらも失敗に終わったことを指摘しました。彼の言葉は、もし神様から出たものだったら気をつけなければいけないということを示唆しています。そして今の時点ではわからないのだから、しばらく様子を見るべきだと提案しました。
これは非常に知恵のある言葉です。そして、最後の「神に敵対する者」という言葉は重要です。私たちは自分が神様の側にいると思っていても、気づいたら神様に敵対する立場に立っているかもしれないのです。だからこそ、常に注意深く、謙虚でなければなりません。
議員たちはガマリエルの助言に従い、使徒たちを釈放しました。しかし、彼らにイエスの名によって語ることを禁じました。それに対して使徒たちはどう反応したでしょうか。
聖書にはこう書かれています。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、神殿や家々で教え続け、イエスがキリストであることを宣べ伝えることをやめなかった。」(使徒5:41-42、新改訳2017)
使徒たちは、もう少しで殺されそうになるほどの危険な状況にありました。実際、この後ステパノという人は殺され、十二使徒の一人であるヤコブも殺されることになります。当時の教会にとって、殺されるというのは決して遠い話ではありませんでした。
それでも、使徒たちはイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめませんでした。これが初代教会の姿です。自分たちが語ることが当時の権力者を怒らせることだとしても、彼らは大胆に語り続けました。
私たちもこの姿勢を学ぶべきです。大胆に語らなければいけない時に語ることができるよう、常に祈り続けていきたいと思います。この世のいろいろなものが私たちの目を誘惑します。しかし、私たちは福音に生きることができます。
何を自分は大切にしているのか、自分の人生の軸は何なのか、ブレないようにしっかりと見つめ直す必要があります。苦しみの日、最悪の扱いを受ける時があるかもしれません。そんな時、教会はイエス様の言葉を思い出すのです。
イエス様はこう言われました。「人々があなたがたを憎むとき、人の子のために、あなたがたを排除し、侮辱し、あなたがたの名をあしざまに言うとき、あなたがたは幸いです。その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。見よ、天におけるあなたがたの報いは大きいのです。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカ6:22-23、新改訳2017)
預言者の声はしばしば人々に届きませんでした。イエス様も十字架につけられ、殺されました。しかし、このイエス様の十字架の死によって、私たちは生きる道を見出すのです。神様の計画は、私たちの常識をはるかに超えています。
イエス様の死が私たちを生かす、そういう道があるのです。使徒たちは辱められ、それに値するものとされたことを喜びました。この喜びを、私たちも味わいたいと思います。
この喜びは、聖霊の実の一つです。聖霊の実とは、聖霊が結ばせる実のことです。つまり、私たちが頑張って喜ばなければいけないと考えて苦しい中で無理に喜ぼうとすることとは全く性質が違います。
喜びは聖霊によってもたらされるものです。聖霊の風が吹いて、私たちがその風に流され、その風を感じている中で、私たちの心の内に喜びは生まれてくるのです。これが聖書が語る喜びです。
だからこそ、苦しみの中でも「神様はどこにいるのですか?」と探し続け、聞き続けながら歩んでいくのです。自分たちの常識を働かせることは大切です。しかし、常識にとらわれすぎて神様の働きが見えなくならないように気をつけなければなりません。
今日も聖霊は私たちの間に働いています。その神様の臨在を感じながら、神様の導きに従って歩んでいくことができますように。その中で喜びを見出し、歩んでいけますように。
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