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隣人愛とは

ルカ10:33,34    2024 03 15 (金)
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。

言わずと知れた良きサマリア人のたとえです。祭司とレビ人は半殺しにされた旅人を見捨てて去りました。彼らが薄情だったわけではありません。助ける術を持っていなかったのです。しかしサマリア人は違います。人を<助ける知識>を持っていました。かつて旅先で同じようなことに遭遇して、うまく助けられなかったという苦い思いから学んだのかもしれません。またぶどう酒とオリーブ油という<助ける資源>を持っていました。運ぶためのロバを持ち合わせていました。旅人を乗せて自分は歩くので<助ける体力>もありました。また他人を宿屋に泊まらせるほどの<助けるお金>もありました 。何よりも最大の備えは「かわいそうに思った」心です。日本的に言えば、断腸の思いとか惻隠の情、慈悲の心と言ったものでしょうか。

ほんらいサマリヤ人はユダヤ人から劣等民族としてさげすまれていました。彼にすれば行き倒れになっているユダヤ人は敵です。見捨てて当然なのに彼は恩讐を越えて助けました。自分に損になることを敢えて行ったのです。私たちもこのように困っている人を助けようと思ったら、助けるための知識を身につけ、資源を用意し、体力などの余力を持つことです。お金を貯めるのも、人が困ったときに気前よく助けられるためにも必要です。それがなければいくら「かわいそうに思って」も、ない袖は振れません。祭司やレビ人のように見捨てざるを得ないでしょう。詰まるところ、自分をよく養えば、人をよく助けるとができるというわけです。キング牧師は言ったそうです「祭司は旅人に関わったら自分はどうなるだろうかと考えた。いっぽうサマリア人は自分が関わらなければ旅人はどうなるだろうかと考えた。」と。

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