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神を求める心

伝道の書 3:11    2024 05 06 (月)神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

私たちの社会は宗教に対するアレルギーが強力です。インテリにとって無宗教であることは知性の証しであり、宗教に関係することは侮蔑の対象となります。一般的にも特定の宗教を持たないことは、賢明な生き方とされています。何かの宗教に関わろうものなら、身近な人々からたいてい「深入りをするなよ」と忠告されます。宗教は敬して遠ざけるものとされています。けれどもそういう人々も厳密な意味では宗教に深入りしています。「己が腹を神となし」 (ピリピ3:19 大正文語訳) とあるように、自己決定権を神とし、これは「神聖ニシテ侵スベカラズ」です (大日本帝国憲法より) 。つまり「自分教」であり、自分が教祖で、自分が神というわけです。しかしその行きつく先は「今だけ、金だけ、自分だけ」という功利主義にならざるを得ません。生きているうちが華だ、生きているうちに楽しめ、ケセラセラ…。

また人々が宗教に近づきたがらない理由は、宗教が自分の自由を縛るのではないかという恐れであるようです。確かに自分の尊厳は守らなければなりませんし、誰からも奪われてはなりません。とうぜん個の尊厳をおとしめ、組織への服従を強要する宗教団体には近づいてはならないでしょう。世の中にはカルト宗教がはびこっており、信者が自由にものを考えないようにマインドコントロールし、奴隷化している実態が知られるようになって来ました。しかしそれゆえに人々をさらに宗教から遠ざけるようになっているようにも見えます。個人の意思をないがしろにしない宗教まで敬遠されているのは悲しいことです。

しかし人々が宗教から距離を取っても、宗教心まで消せるものではありません。それどころかそもそも人間は何かを信じなくてはいられないどうしようもなく宗教的存在ですらあります。風呂の栓を外せば水は勢いよく排水管へと吸い込まれてゆきます。重力が働いているように、無意識のうちに人は神を求めざるを得ないのです。人間は最初から自分の創造主である神に依存するように設計されました。神は「永遠 (自分を創造した神) を想う思いを授けられた」のです。その意味で無宗教者を含め、神を求めないでいられる人はこの世にいは一人もいません。

しかしその神に依存するまでは神以外の何者かに依存せざるを得ません。神仏、思想、哲学、仕事、お金、家族、趣味、買い物、芸能人、グルメ、健康、ダイエット、美容、アンジエージング、スポーツ、アルコール、薬物、ギャンブル、セックス、スマートフォン、SNS、PCゲーム、マネーゲーム、などなど。

しかし神さまだけは目に見えないのでどんなに依存してもだいじょうぶです。創造主である神以外のもの (偶像) に依存すると、一時的な満足しか与えられず、必ず梯子を外されます。たとえば海釣りをするため沖へ出たはよいものの、飲み水を忘れたからと言って、海水を飲んだらどうなるでしょうか。もっと渇いて苦しみます。そのように偶像は人間を最終的には残酷に扱うのです。魅力的に見えたはずなのに、牙をむいて奴隷化するのです。美女と思ったら野獣だったというわけです。

ではどうすればよいのでしょうか。照準を正しい方向へ向き直せば良いのです。これまでは依存する相手を間違っていましたが、正しく依存すべき創造主なる神に向けば良いのでます。方向は間違っていましたが、何かに依存しよういうエネルギー (宗教心) は間違っていませんでした。私たちは他者の信念を変えることはできません。けれども人となられた神であるキリストに心の照準を合わせて生きていることを案内することはできます。「クリスチャンはそんな考え方をするのか」と思われるだけでも成功だと思います。その人の心にみことばという錨を下ろすことになり、やがて心に隙間のできたとき、永遠を思う思いが目覚めるかもしれません。何十年かかっても、神に目覚める時が来ると信じて、細く長く付き合いたいと思います。


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