見出し画像

自慢と誇り

マタイの福音書 6:3     2024 05 09 (木)
あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。

人からしてもらった良いことは忘れやすく、自分が人にした良いことは忘れにくいものです。それによってつい恩着せがましくなったり、表には現さないものの、あの時こうしてやった、ああしてやったと自分の功績を数え上げるかもしれません。生身の人間である以上、私たちもこのような浅ましさから完全に免れることはできません。自慢したいという思いはなかなかしぶといものです。自慢しないでいられるのなら、イエスさまは今日の金言を言われませんでした。「できるからしなさい」とも命じています。できるから、と言うのは人間の力ではなく、聖霊の力に依り頼めばできるということです。

たとえば長く失業していた人にとっては、仕事にありつけたというだけで儲けものでしょう。そもそもが人に何か良いことをしてあげられたとすれば、それ自体が報酬だとは考えられないでしょうか。人によくしてあげたことは、たとえ当の相手から感謝されなくても、神さまがそれを細大漏らさずご覧になって、お褒めになっています。「忠実なしもべよ、よくやった」と天の帳簿に記録し、相応の報酬を用意しておられます。それがわかっているなら、知られなくても、感謝されなくても心はザワつかないというものです。「右の手がしていることを左の手に知られないように」することが可能なのです。これは聖霊による超自然的な営みです。自分には最初から無理だと諦めるのではなく、自力ではできないことを受け入れたいものです。

いっぽう自慢に似ていますが、何かを成し遂げた自分を誇りに思うことは決して悪いことではありません。成功した自分を喜ぶことは、神の恵みによると自覚しているなら健全です。単なる自慢と、主によって誇るとは雲泥の差があります。日本人は自慢することを嫌うので、誇ることすら悪いものと考えてしまいますが、それは過ぎたるは及ばざるが如しですから、両者を峻別したいものです。私は神の力で達成できました、とアカデミー賞の授賞式で聞くではありませんか。これは他力を誇っているので自慢にはなりません。

ですから、もし人からほめられたら、「いやいや私はそんなものではありません」などと言うのはやめてはどうでしょうか。本当にそんな者ではないと心の底から思っているなら良いでしょうけれども、本心ではまんざらでもないと感じているかもしれません。だったら素直に感謝しませんか。イヤイヤ期は終えましょう。「褒めてくださって嬉しいです。」と言うトレーニングをすることです。慣れてくると「よくわかってくださいましたね。さすがお目が高い!」とずうずうしさが出てくればしめたものです。そうすればその点において日本人性を脱皮し、よりイエス人に近づくでしょう。イエス人とはあらゆる民族性を超えて、堕落前のアダム、人間の中の人間、ザ人間であるイエスさまの性質と価値観を持つ在り方のことです。神の国は劣等感も優越感も何の計算もなく真実にほめ合う人間関係です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?