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喜びの源泉

ヤコブの手紙 1:17 2024 05 22 (火)
すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

日本にはまだ贈答文化が残っています。人から何かもらったら、自分も何かお返しするという習慣は廃れつつあるものの、地方では中高年に根強いです。麗しい面、煩わしい面もあります。イエスさまは何と言っているかというと、お返しのできない貧しい人に与えなさいと言っています。その心は、社会的立場の対等な人どうしで物のやり取りをするなら相殺であるが、困っている人に一方的に与えるなら、天に宝を積む、神さまに貸しを作ることになり、天国に行ったとき、それに対するキックバックを受け取れるというのです。

ほんらい贈り物は一方通行でなければなりません。Aランクのプレゼントをしたのだから、自分もAランクのお返しを受けるべきだ、などと考えて贈るなら、それは打算の産物となり、贈り物の本分を踏み外しているでしょう。たとえば親が子供に誕生日プレゼントをするときに、それまでの一年間の子供の成績を基準に選ぶことがあるでしょうか。それはもはやプレゼントではなく、取引に成り下がっています。こんな親子の話は現実にはないことですが、実は身の回りに転がっています。もし親密な人間関係の大半が取引や、ギブ&テイクや、貸し借りで成り立っていたら悲しいことです。

しかし私たちの人間関係が神からのプレゼントと考えたらどうでしょうか。伴侶、子ども、親、親戚、教会の人、職場の人、そのほか身近に接する人々は、神さまが置いてくれたギフトであると見たら景色は変わるでしょうか。人を無理に好きになることはできませんが、心の中でだけでも、神さまのギフトだと思う努力は可能です。実はその営みは、聖書では愛と言います。聖書のいう愛とは、必ずしも好きという感情が伴わなくても良く、誰かを大事にしよう、尊重しようと努力する営みを言います。愛することに努力がいるなんて聞いたことがないかもしれません。けれども恋愛関係の中にある人どうしでも、実は愛情だけでなく、それなりに努力しているのではないでしょうか (一方だけの場合もあるでしょけれども)。

神の贈り物は広範囲にわたっています。たとえば今日という一日も神さまからのプレゼントです。たとえば詩篇にはこうあります。「今日こそ主の御業の日。 今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」(詩編‬ ‭118‬:‭24‬ 新共同訳‬)。陰鬱な気分であっても、心が伴わなくても、今日一日は神さまからのプレゼントとして受け取るようにしています。急に気分がすぐれるわけではありませんが、どんなふうに神さまが関わってくださるのか期待します。とにかく意味のある一日が目の前に開けているのだと考えられるのは幸せだと思います。内村鑑三の著作の題名に「一日一生」とあるとおりです。

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