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復活の証明

マタイの福音書 28:6     2024 05 16 (木)
ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。

キリスト教は「復活教」です。キリストの復活が起きなかったらキリスト教はとうの昔に消滅していたでしょう。二千年前、ユダヤに起こった新興宗教が数年だけ存在して滅び、歴史に何の痕跡も残さなかったに違いありません。それが世界宗教になったのは、ひとえにキリストが復活した事実にあります。イエスの弟子たちが地中海世界を縦横無尽に宣教してクリスチャンの群れを増殖させて行きましたが、何を語ったのかと言うと、「イエスは復活した救い主である!」ということです。

倫理でも道徳でも教義でも儀式でもありません。復活して生きている救い主イエスを信じれば、あなたは罪を赦されて永遠の命を持ちますと行くところどころで語り続けました。多くの人は死人が甦るなどありえないと馬鹿にして信じませんでした。しかし多くの人が信じて神と共に生きる道を選びました。この法則は現代でもまったく変わりません。ただ頭から復活を信じなければならないわけではありません。復活とは人間が信じようと思って信じられる事象ではないからです。イエスに自分の救い主になっていただきたいと謙虚に願えば、その人の中に入ってくださり、一緒に生きてくださることがわかれば、それは復活を信じていることになります。世界中のクリスチャンが復活したキリストにより頼みながら生きています。日本人には少ないですが、世界には知的エリートにも少なくありません。

そのときすでにイエスの復活を信じていることになります。理性でもなく知性でもなく感情でもなく、信仰によって受け取っているのです。それは宗教的自己暗示ではないかと疑われても、確信のあるものはあるのでどうしようもありません。集団的幻想ではないかと言われても、キリストを信じるプロセスは千差万別で、一つとして同じものはありません。入信のロマンスは実にユニークで傾聴に値します。男女の出会いもそうであるように。

キリスト教に興味を持って本を読みたいとします。書店に並んでいるキリスト教関係の本に共通していることは、残念ながら、ほぼ例外なくキリストの復活を否定するか、読者から反感を持たれないように触れないかです。それは無理もありません。復活を信じていない人、本当のキリスト教信仰を持っていない人が書いているからです。聖書について解説する人は、十字架について触れることはあっても、復活についてはためらいます。それは弟子たちの願望であったと説明するわけです。もしそうだったはキリスト教は起源1世紀で終わっています。復活の事実を否定したら、それはもはやキリスト教ではなく、キリスト教まがいの造花です。

しかし弟子たちとその弟子たちは、迫害をものともせずに福音を地中海世界に広めました。人は単なる希望艇観測のために死ねるでしょうか。死んだキリストの遺訓、つまりキリスト教道徳を広めるために自分の命を賭けることはできないと思います。内部的証明になりますが、二千年の間、ほぼ世界中にクリスチャンがいることが最も力強い復活の証明になると思います。ほんものの生まれ変わった (born again) クリスチャンであれば、自分と一緒にキリストが生きてくださっていることを疑いません。復活したから共に居てくださるのです。

かつて「ベンハー」という有名な映画がありました。前後4時間にわたる長大なものです。たぶん50代以上の人なら見たでしょう。この原作を書いたのはルーウォーレスというアメリカ人で、北軍の将軍であり、ゴリゴリの不可知論者、つまり不信者でした。ある時クリスチャンたちの信じているキリストの復活がなかったことの証拠を集めるために、友だちと二人で今のイスラエルを調べて回りました。ところがクリスチャンになって帰って来ました。調べれば調べるほど復活を否定できなくなったのです。こうして彼は信仰をモチーフにした小説を書きました。この映画が世紀の大ヒット、ロングセラーとなり、これを見てクリスチャンになった人は世界で数知れません。

かつて北アイルランドでイギリス側のテロリストをしていた人で、刑務所でこの映画を見てクリスチャンになりました。それどころか宣教師になって日本で宣教しています。私はこの証言を直に聞きました。ですから心を空しくしてキリストが私と一緒に生きてくださいと祈ってみてはどうでしょうか。気持ちが伴わなくても構いません。心に念じるだけでも構いません。何も起きなくてもいつか変化がやって来ます。なにしろ復活のキリストはご自分の生きていることを表したい、そしてあなたの人生を助けたいと願っているのですから。

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