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新しい人

エゼキエル書 36:26     2024 05 20 (月)
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

これは新約時代に関する預言です。エゼキエルは紀元前6世紀に出た預言者です。彼はいわゆる終末のエゼキエル戦争を預言した人としてキリスト教界では有名です。近い将来、ロシア、イラン、トルコの連合軍がイスラエルの富を奪いに侵略すると預言しています。今まさに、かつて犬猿の仲であった三国が接近して同盟を結ぼうとし、知らずして聖書の預言を成就しようとしています。神は過去、現在、未来を一度に見渡すことができるので、預言の成就は100%確実です。

しかしエゼキエルは終末預言だけでなく、クリスチャンの信仰のあり方も啓示しています。神の聖霊がすべての信仰者に付与され、この方の助けを受けながら生きる力が与えられるという営みです。旧約時代の信仰者は知りませんでしたが、聞いてもそれは高嶺の花と考えたでしょう。なにしろ当時は神の霊は特別に選ばれた人に、一時的に臨むものだったからです。たとえば、王、祭司、預言者などに限られていました。

しかしエゼキエルはふつうの信仰者が気軽に神と共に生活できる時代がやって来ると、二千五百年前に預言しました。真面目に生活する「良い人」で社会は成り立っています。しかし神が用意しているのは、生まれ変わった「新しい人」です。キリスト教は馬を調教してより高く飛ばせることではなく、馬に羽を生えさせて空を飛ぶようにさせることです。神わざの人生を提供します。

まずそれは「石の心」が取り除かれることです。石とは硬さ、冷たさ、重さをイメージさせます。これは神に頼らず、自力で生きようとする心です。もちろん人間は神に頼らなくても生きて行けます。聖書も自分でできることは自分でしなさいと言っています。クリスチャンはなんでも神頼みにして、自分の人生に責任を負おうとしないと、一般的に思われていますが、聖書はそうは言っていません。ベンジャミン•フランクリンがは「天はみずから助ける者を助ける」と言いました。無責任な生き方を奨励しているのではありません。

それはその通りなのですが、人生はコントロールできません。それは天気を支配できないのと同じです。平穏無事、順風満帆な生活を願いますが、どういうわけか、しばらくするとまた嫌なことが起こります。それは自分の失敗が招くこともあれば、誰のせいでもないこともあります。そのとき私たちは無力感を覚えます。人生をコントロールできないことに失望するわけです。人間どん詰まりになると、ふだん神に無関心な人でも、どういうわけか神を求めてしまいます。神でもなんでもいい、この苦しみから救ってくれ、というわけです (これは私のかつての姿です)。すべての人はどうしようもなく宗教的な存在です。

ここまで来たら、賭けに出ることです。神が居て自分を救うほうに賭けるのか、それとも神頼みしないで自分を信じるほうに賭けるのか、どちらかで、それはまったく自由です。数学者、化学者、そして神学者であったパスカルは、確率理論の確立者でしたので、神が居るほうに賭けたほうが合理的だと言いました。神が居ると信じて死後何もなくても損害は受けません。しかし神は居ないと信じて死後があったら、その損害は永遠に続きます。

そのように人間は例外なく神の存在を完全には締め出すことはできず、同じように死後への不安も完全には払拭できません。まったくコントロールできないからです。ここに神の出番があります。神に頼るか頼らないかは完全に自由です。神は意外にも紳士な方です。私たちの選択にやかましく口出しはしません。ハラスメントもまったくありません。しかし頭の片隅に、神に頼るという選択肢を残しておけば、いつか役に立つ日が来るのではないでしょう。それは敗北ではなく、ほんらい居るべき神という親の家に帰ることなのです。神さまは一日千秋の思いで待っていることでしょう。一緒に人生を歩みたいと願っています。奴隷ではなく父として、友として。


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