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キリストの弟子道

ペテロ第一3:15      2024 05 10 (金)
むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

日本人は宗教に対してはおおむね寛容です。人が何を拝んでもあまり気にしません。ところがキリスト教となるとどういうわけか「あまり深入りをするなよ」と釘を刺されます。教会に通うのはまだしも、洗礼を受けるとなるとたいていの場合、俄然反対します。宗教への疑念と不安があるようです。また先祖をおろそかにする行為と見なすようです。これは徳川三百年の禁教が今でも潜在意識に効いているからでしょう。毎年「わが家は耶蘇教ではありません」と檀家寺に誓願を義務づけられていたので、日本人のアイデンティティに染み込んでいるようです。

ですからキリスト教ば良いものだと知っていても、敬して遠ざけるのです。クリスチャンが主に従うがゆえに何らかの不利益をこうむるのは織り込み済みにすべきでしょう。それはキリストに従う者の証しであり勲章です。そうは思えないかもしれませんが、主は踊らんばかりに喜べと言っています。なぜなら天における報酬は莫大なものだからです。

とはいえ現実は痛いものです。正しく生きても評価されるどころか煙たがれることもあるでしょう。「悪を行う者はみな、光を憎み」、世の中は不義を喜ぶからです (ヨハネ3:20 )。そのようなとき隠れ場があります。「心の中でキリストを主とあがめ」ることです。「主よ、あなたは私の正しいことをご存じです。どうか公平に取り扱ってください。もし私が間違っていたら、それを認める勇気をください」と祈ってはどうでしょうか。逆風を賢く切り抜けるでしょう。

しかし耐えるばかりが能ではありません。突然、誰かがあなたの信仰に関心を示す時が訪れます。聖霊がその空間をセットしてくださるのでしょう。神のタイミングというものがあります。ディヴァイン・アポイントメントと言われます。しかしそのとき簡潔に伝えられるように、準備をしておきましょう。90秒の証しを提唱する人がいます。90秒を超えると無関心の人は上の空になったり、居心地が悪くなるそうです。相手の反応如何に関わらずそこで止めるのが肝だそうです。実際、語りすぎて裏目に出ることもあります。

このように時間を制限することは主への信頼へと私たちを向かわせます。相手の心に響いていないように見えても、語ったあとは聖霊のお働きにお任せするのです。人はクリスチャンを観察しています。自分の人生をキリスト教に任せても大丈夫かと様子見している場合があります。私たちは人を神さまの側へ渡らせる架け橋です。コツコツと祈りの種、愛の種をまき続けましょう。神さまはそのプロセスを喜んでくださいます。結果は神さまが出されます。

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