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神の義と愛

詩篇 103:8 2024 03 01 (金)
主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。

ここには神さまのご性質が表れています。主が怒る神であることには旧約も新約も違いはありません。旧約の神は恐ろしく、新約の神は愛に富む、などという違いもないように。私たちを愛すればこそ、罪に対しては怒られます。愛と怒りは両立します。もし私たちの不義に怒らないなら、私たちには関心がないということになるでしょう。あなたが悪いことをしても、わたしは痛くも痒くもないというお方ではありません。その怒りは罪そのものに対してであり、私たちの存在に向けられることはありません。" 罪を憎んで人を憎まず " というわけです。

神の怒りは十字架のキリストの上に存分に注がれました。てすかから私たちが神の子になった瞬間に神の怒りは取り除かれました。そして神さまの感情は怒りよりも愛がはるかに勝ります。「あわれみ深く、情け深く、恵み豊か」と怒りの三倍もあります。しかも怒るにしても遅いというのです。実に 「憐れみは裁きに打ち勝つ」(ヤコブ2:13) とあるとおりです。もし神さまが情け深いよりも恐ろしい方であると感じている人がいたら、きょう認識を改めていただきたいと思います。" 何か間違いを犯したら、容赦なく罰する " という短気な神は異教の神です。そんな幼稚で子供っぽい神は捨てましょう。

神さまの山よりも高く海よりも深い憐れみは、わがままで自我丸出しで忍耐力に欠ける私たち人間とは違うのです。神さまはクリスチャンを成熟させるため、私たちのトラブルにあえて手を出さないことがあります。自分で蒔いたものは自分で刈り取らせます。それが愛だからです。自分で蒔いたものを神さまが刈り取ったら無責任な人間にななるでしょう。ですから可愛い子には旅をさせよということでしょうか。ひとり立ちさせるために困っているわが子を助けないでいる親のほうが辛いでしょう。私たちの父は愛情の塊であるがゆえに私たちが失敗することをお許しになります。「憎くては打たせぬものぞ笹の雪」。雪で重くなった笹を叩いて軽くしてやるのは親心です。甘やかす愛ではなく、成熟させる愛です。

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