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人の足を洗う

ヨハネの福音書‬ ‭13‬:‭14 2024 05 21 (火)‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
ところで、主であり、師であるわたしがあなたーがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

明日は十字架にかけられるという前の晩 (十数時間前) 、最後の晩餐の前にイエスさまは仰天ものの行動に出られました。それは弟子たちの足を洗うという行為です。これはほんらい外から帰ってきた主人に対して召使が行うことです。弟子たちはイエス様に足を洗われて呆然としていました。なぜ主が私たちの足を洗うのだろうか、あり得ない! 目の前で行われていることに混乱していたからです。

やっとのことでペテロが口を開きます。「私の足を洗わないでください。畏れ多いことです」。主は説明されます。「私がこのようにしたのは、あなたがたが互いの足を洗い合うようになるためです」。イエスさまが弟子たちの足を洗うことはこれが最初で最後でしたが、弟子たち私たちが誰かの足を洗うことは、頻繁に行われるべきことです。

それは人が失敗したときにチャレンジされます。「しつこくつっこめ他人の失敗、笑ってごまかせ自分の失敗」と言われたりしますが、さもしいことです。このときすべきことは「愛は多くの罪をおおう」(第一ペテロ4:8) とあるように、私たちも身近な人の弱さを担うべきではないでしょうか。職場の上司は部下の失敗をかぶるのが仕事の一つだったりします。上司は我慢業と言われる所以です。野球でショートがトンネルしたら、レフトがそのボールを追いかけないでしょうか。

たとえば誰かがヘマをやらかしたら、それをあげつらったり、あざ笑ったりするのでなく、黙ってフォローしてあげたいものです。そのとき私たちはその人の足を洗っているのです。その度量の大きさが人を育てます。自分もかつて取り返しのつかない失敗をしてきたことを棚に上げるような狭量な人には人はついて行かないでしょう。

大きな失敗をしたにもかかわらず、感情に任せておこられなかったら、恩義に感じて上司を悲しませまいとおのずから決心するのが人情でしょう。人は恐れから従ってもパフォーマンスは上がりません。大失敗した人は、じゅうぶん自分を罰していますから、叱る必要はないほどです。人は自分の足を洗ってもらったら、今度は人の足を洗おうと願うのは人間の本性にかなっています。


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