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神の親心

ハバクク書‬ ‭3‬:‭17-18‬ 2023 02 29 (木)‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬ ‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
いちじくの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず オリーブは収穫の期待を裏切り 田畑は食物を生ぜず 羊はおりから断たれ 牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。

預言者ハバククは紀元前7世紀の人です。背信のイスラエルに対する神の裁きと神のあわれみを並立して預言しています。神に選ばれたイスラエルですが、神さまはいつでもイスラエルの肩を持つわけではありません。イスラエルが特別忠実だから、優秀だから、よく言うことを聞くから選ばれたのではなく、イスラエルをとおして創造主にして唯一まことの神の生きていることを諸民族に知らしめるというミッションを授けられました。このように聖書に選ばれた理由は示されていませんが、目的ははっきりしています。イスラエルの特権には重い責任が付与されており、ハバククから2,600年後の現代のイスラエル民族にもその特権と責任は引き継がれています。今、彼らはそれをじゅうぶん果たしているとは言えませんが、やがてとてつもない患難を経て目覚める時が来ます。

そういうわけでイスラエルは背信のときは神から容赦なく裁かれて来ました。まるで金床で打ち叩かれる鋼 (はがね) のようです。それを何千回と鍛えると鋭利な刃物ができます。神は彼を裁いて捨てたのではありません。わずかでも悔い改めの兆しが見えると、何も無かったようにして関係を回復されます。これは唖然とするほどです。放蕩息子の例えに出てくる愛にやつれた父親の姿です。「憐れみは裁きに打ち勝つ」(ヤコブ2:13)。神さまにとって裁くのは最終手段です。裁くという言葉は適切ではなく、蒔いたものを刈り取らせると言ったほうが正確でしょう。クリスチャンも自分の過ちによって生じた不始末を、自分の問題として所有する必要があるでしょう。このように痛い思いをしてこそキリストのかたちに成熟することができるというものです。一歩、大人のクリスチャンに近づくわけです。

そのように私たちを育てる親心として神さまは聖書をお与えくださいました。神の言葉に触れるとき、私たちの内側の何かが影響を受け、変化を促されます。みことばは神の国の価値観に転換するようにチャレンジしてきます。いっぽうで私たちは祈りによって神さまに影響を与えることができます。導きは運命のように硬直したものではなく、私たちの願いに影響され、調整なさることはあり得ます。なぜなら神さまは友人関係という次元においては対等に扱ってくださるからです。ご自分の計画をゴリ押しすることはないのです。ですから初めから 「みころのままになさってください」 と祈る必要はありません。それだと神さまは「あなたはわたしに何をして欲しいのか」と尋ねるかもしれません。ぜひ大風呂敷を広げましょう。天のお父さんはあげたくてあげたくてしょうがないお方です。「王は彼女に言った、『王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう』」(エステル記5:3)。私たちの父は、とほうもなく気前良く、太っ腹なお方です。駄々をこねるように願いましょう。

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