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人の死が自分ごとになる瞬間

人の死に直面することが、ここ数年ある。
そのたびに、私は後悔しないように生きようと思ってきた。
今回、三浦春馬さんの死を受けて、同じように思うと思っていた。

昨日のことだが、思うことは違っていた。
もともと儚げな笑顔だなあと、綺麗な俳優さんだなあと思ってきたが、相当に追い詰められていたのだと8日の映像やインスタをみて、はっとした。

死んではいけないと言うのは簡単だ。
死よりも生きる方の選択がいいことは分かっている。
ただ、それ以上に追い詰められるときはある。

正常な思考ではない。
波もあり、もう少し大丈夫だと自分でも思うことがある。
足を踏み外して階段から落ちた方が楽になれるかもしれない。
ふと、そんなことが頭を過ぎる。
自分でもよく分からない。

振り返ると、本心を出せる人や相談できる人が少ない真面目な人の傾向であるように思う。
いい人だから。
できる人だから。
相談することすら、気を遣う。
急速に心を蝕む。
閉じこもる。

周りにできることは、解放してやること。
やりたくない、これがやりたいということをとにかく何も考えずにやらせること。
足枷を外す。

本当は自分でやらないといけない。
けれども、できない。
だからこそ、何も言わない、聞き分けのいい人ほど、解放を求めている。

私もふとその道に進む可能性が、今もこれからも突然あるかもしれない。
何かに失敗したとかそういうことではない。
成功したとしても、自分の心が死んで、生きる意味がないと感じてしまって、奥深いところに落ちてしまったら、明日は私かもしれない。
悲しいよりも、さらに深く私を抉る。

数年前には考えられなかったことが、この1年で身近に感じるようになったのは、同じような経験をしたから。
そして、それを経験していない人ほど、死ななくていい、生きているだけでいいと言う。
そんな単純な話ではない。
解決する話でもない。
失敗も成功も関係ない。
自分が自分で許せるか。
解放されるか。

生と死は、いつも隣り合わせで波打っている。
明日は自分かもしれない。
いつも心に刻む。
だからこそ、いまここを懸命に過ごしていく。

#三浦春馬さん #追悼