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Alone Again...マスカレード(3/全17回)

「あなたは気づいていないかもしれませんが、心と心は通じ合っています」


 夢から醒めたらそれが夢だった。しかしいったい、誰がそれが夢でないと保証できるのか。永遠の夢の連鎖に生きるのが人間であるならば、俺はその夢を生きようと思った。

 たとえそれが、虚しいマスカレードであったとしても、ダンスの相手はみゆきだった。ダンスステップは偽物だ。しかし俺の偽物は限りなく真実だ。

 ガラス戸一枚隔てていた迷路の出口。正しく出口を出るためには、自分が歩いた道を正確に戻らなくてはならない。しかし、俺は俺の過去など忘れていた。自分の歩んできた道を振り返らないといえばカッコもつくが、決してそんなものじゃない。

 振り返ることにどんな意味があるのかと、ただひたすら前を向いて歩く。それも違う。ただ振り返るのが怖かった。そこには堆肥のように積み重なった、目を背けたくなる俺の恥部だけしかなかったからだ。

 外の世界だけはガラス越しに見えているが、それは途方もなく遠い世界だ。ならば、このままガラス戸一枚の先の出口を想像してみよう。出口の先にはみゆきがいる。ここから、外の世界めがけて熱い口づけをかわそう。ガラス越しの燃えるような口づけこそ俺にふさわしい。

 俺ならガラス越しの口づけさえ、熱くしてみせることができるはずだ。

 最高のマスカレードを踊るのさ……。
 仮面の告白を演じきってやろう。

 俺はお気に入りの曲を脳髄に鳴らした。

 俺はタロットカード並べていった。みゆきの娘が好奇心で目を輝かせて、思わずといった様子で、みゆきの後ろから出てきた。カードを間近で見入っている。カードにはトリックはないものの、俺は、なんだかその純粋な視線に怯えた。

 ――俺の嘘がもし露見するとしたら、それはみゆきからではなく、このみゆきにそっくりの聡明で美しい妖精がきっかけになるだろう。なぜだか、そんな予感めいた確信が浮かんだ。

 だが、怯えてダンスステップを踏み外すわけにはいかない。

 俺は、ゆっくりとカードを並べながら、カードから視線をそらさずに視界の中にみゆきを入れ、囁くようにみゆきに語りかけた。


「あなたは過去の実らなかった恋愛に、今でも大きく左右されているようですね」


 最初は軽い探りだ。触れられたくないものにそっと触れられたときに人は、自分の心の中の錆びついた錠前の鍵音が、秘密めいてカチリと音を立てるのを聞くのだ。

「そうね、そうかも……しれないわ」

 口元に少し笑みを浮かべてみゆきは軽く首を傾けた。うなじのほつれた髪が、ロングドレスの裾のように優雅に宙に舞った。

 無難な答えだ。

「でも」

「ええ、なんですか」

「できれば今のことを、そしてこれからのことを占ってほしいの」

「いいでしょう」

 いつもならこのまま、しばらく詐欺ネタで引っ張るのだが、たまにこうして積極的にリクエストをしてくる客もいる。


「あなたのごく近くに、あなたを思う人がいるようですね。相手はあなたにとても惹かれていますが、それを態度に出さないように努力しているようです」


 このときのみゆきの表情を一言でいうと、少女のそれだった。

 淡い期待と微かな不安、期待と不安が拮抗する中でわずかに期待が上回っている。このバランスが崩れる時、女は大きく心が揺れ始めてすぐには戻れなくなる。経験上それは間違いのないことだった。

 ……俺の知っているようなキャバ嬢達は、最後にはこちらの術中に落とすにせよ、もっとしぶとかった。みゆきの素直な、あまりにも素直すぎる反応に、俺はまた、微かな罪悪感をつのらせた。


「相手はあなたのことを友達ではなく一人の女性として見ているようです。時々彼の目を見たいと思ったときに思わず目があったりしませんか」


「あります」

 やれやれ。今度は即答した。

 これは珍しいケースだ。心療内科の問診ではないのだから、客には返答する義務はない。曖昧に嗤っているだけでも、ちっとも当たらないと不機嫌になるのも、客に許された権利である。大抵の客はまだ期待と不安が拮抗している段階だ。

 だが、みゆきは一気に期待の方向に心の舵を切ったようだった。
 俺には手にとるように分かる。船は右舷に急旋回した。面舵いっぱいの状態で、そのまま手を離さなければ、心の底にはコークスクリューで螺旋状の穴が開けらる。そのまま船は沈むだろう。

 俺は、少しだけ取り舵方向に針路を修正した。


「残念ながら、相手は今は恋愛をする時期ではないと考えているようです」


 やばい。ほんの少し左舵に回したつもりだったのだが、みゆきの顔に落胆の色が広がった。急な左回転のステップを踏んだために、純白のドレスに右手に持っていた深紅のボルドーワインをこぼしてしまったのだ。

 ついでに、余興でつけたみゆきの仮面は床に落ちている。素面のみゆきは、店ですら見せたことのなかった、初めて見るような素顔を俺の前にさらしていた。あの店内での自然なふるまいですらも一つの演技であったかと思うような、人間の魂そのものの清らかで聖なる素面だった。

 俺も、自分の仮面を思わず外してしまいたかった。しかしこれはマスカレードだ。ホスト役が仮面を取るわけにはいかない。仮面の告白はなんとしても成就されねばならない神聖で尊い義務だった。


「あなたは気づいていないかもしれませんが、確実に心と心は通じ合っています」


「どうして分かるんですか、あなたに」

「私のタロットは完全に当たるのですよ。私がそう言っているのだから間違いないのです」

 みゆきは激流の海原での難破をなんとか免れたようだった。

 しかし、その次に発せられた、みゆきの何気ない一言が妙に耳に残った。

「そうね、他ならぬあなたが言うのなら間違いないわ」

 みゆきの瞳は完全に恋をする女の目だった。瞳の奥に仄暗く見える蝋燭の橙色の炎は、狂おしくも猛々しく虚空を典雅に揺れ、それは官能的でさえあった。しかし火傷をするような官能の猛りの奥底には、女はいつでも青い冷静な炎を持っている。

 みゆきは、俺の一言で完全にそのもうひとりの自分を取り戻したようだった。

 ここで気がつけばよかった。
 だが、俺の人生は、いや俺そのものが間抜けにできている。
 俺は、あまりにも女を、いや、人間そのものをゴミクズのように馬鹿にして生きてきた。人の心などというものは邪魔者でしかなかったのだ。

 みゆきの気持ちに気付くことなく、俺は、そのまま無責任にも余計な占いを続けてしまった。


「あなたは気づいていない可能性もありますが、遠からず、彼はあなたがいないと生きていけない状態になっていきますよ。いえ、もうなっているのかも知れません」


 微かな不安は完全に後退し、未来への期待がそれを覆い隠した。

 静かな沈黙があった。自分は愛されていると確信した女の表情は美しく神々しいものだ。俺は仮面越しに西洋の裸婦画を幻視した。

 だが、それを見た俺の心は打ちのめされるばかりだった。
 子供の帰りを待っている今の旦那にも飽いたのか。「新しい男」に期待を寄せて、こんなにも、みゆきの表情は輝いている。
 そいつが一体、どんな男なのかを想像する気力すら、俺には残っていなかった。

 しかし、その表情と仕草は神々しいまでに艶かしかった。俺は今すぐみゆきを、西新宿の雨に濡れた冷たいアスファルトの上に押し倒したい衝動に駆られた。

 もちろん俺の最後の聖女にそんなことはしない。

 俺はみゆきの唇を凝視して接吻を夢見た。


 ガラス越しの燃えるような口づけは、氷のように冷たかった。

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