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【最後の再掲】山根さんありがとうね

悪いけど添削させてもらうわ。

 noteの記事を読むときも、本を読むときも、(完全にできているわけではありませんが)1つの記事・1つの作品として弁護人的な視点で読むようにしています。とりあえず、書かれていることが正しいという前提で読みます。矛盾していると思うときも、著者によって書かれていない隠れた前提があるかもしれません。

 これがまず、ものすごく傲慢な態度であることをあたなは気が付きませんか?あなたは何の権利があって弁護するんでしょう?それは僭越そのものです。あたなに弁護する権利も資格も能力もありません。当事者じゃないんですよ?何で誰を弁護するのですか?こうやっていつもやってるわけですね。いろんな幼稚な哲学めいた企画も。

 今回自分の企画が原因でこのことを引き起こした?はあ?まるで関係ありません。あなたは蚊帳の外の人で、そもそも、あなたは誰かの何か大切なものにタッチできるような人間ではありません。それ、うすうす自分でも気がついているでしょう。だから英検1級取ったんでしょう。言葉のテクニックからまやかしの方法を覚えるために。人に、直接近づけないから。気の利いた文法の勉強や気の利いた単語の暗記からは、人は人に決して近づけない。言語はそういうものじゃない。人とはそういうものではない。あなたは人間として生き方に最初に嘘があるんです。

 「もういいよ、コメント欄を閉じて。今は何を語っても、答えても何も生み出さないから」という気持ちを込めて、私は詩を投稿しました。

 これか。いくらなんでもこれは「詩」ではない。「もういいよ」あんたももまろさんの彼氏か?あははは、めちゃおもれーなこの赤面自意識。きもい駄文。このままいっぺん改行せずにテキストエディタで普通につなげてみ?気がつくだろそれで。あんたがバカじゃなかったら。恥ずかしくないかいい大人が。

 ちなみにももまろさんはこんなの、見てません。自分の影響力みたいなのちらつかせるの恥ずかしくないか?ああ、キモ。そんな能力はあなたにありません。

 数多くの人が言葉という鉄パイプを持っている四面楚歌の状況の中に、正しいとか正しくないと言う前に、1人で乗り込んで行ける人がどれだけいるでしょう?

 作家とは、それができる人のことを言うんですよ。作家は趣味じゃない。ハンドメイド作家じゃないんだ。誰かを死んでも守る人であらないといけないんだよ、その卓越した言葉で。戦争も止めないといけないんだ、文学者は。私は高見さんに「愛」に責任をもってもらいたかった。そこを曖昧にしてはいけない。「愛」を何かに利用した。それおかしくない?高見さん。そう聞いただけ。分かりますよねほんとは?

 分かりませんか?そんなことが。英検1級にもドイツ語2級検定にも出てこないでしょうが、そういうものなんです。あなたの頭の中は所詮検定試験の範囲なんですよ。そこから抜け出るものは全部受け入れられない。稚拙であり、幼稚であり、あなたの限界であり、それが人を深く深く傷つけているんです。

 想定外の、本当に人が悲しくなること。譲れないこと。それをあたなは見ようとしない。ずべて常識で判断する。じゃあ、その常識から外れてしまった人は、その行為は、誰が守るんですか。

 そこでこそ、自分から手を差し伸べて引張あげるのではないのですか?

 あなたは根本的に文学とも哲学とも無縁な人間です。腹立つなその、「妄想哲学者」っての。哲学やっている人間は全員激怒だぞそれ。哲学は命がけだ。妄想でニーチェが死んだとても思っているのか?

 今思うのは、もう何も話さなくてもいいから、高見純代さんにも、ももまろさんにも、いつかまたnoteにもどって来てほしいという気持ちだけです。

 噴飯。
 あなたはそのために何もやってない。
 私は高見さんにも体を張って、高見さんがnoteに戻れるように前回全力でやりました。でも彼女は間違えたことをした。それ言っただけ。私は体を張って高見さんを守り、そのことは彼女もずっと事あるごとに感謝してくれていました。

 あなたはいつも何もしない。
 稚拙な英検1級の範囲内でくだらない文章もどきを、テストの答案のように、正解をかすかに巧妙にずる賢くこっそり意識して書いているだけの人。


 大変失礼いたしました。

 以下は、今のご無礼に、そう言わざるをなかったわけですが、そのご無礼に深く頭を下げて、過去記事を書き直したものです。

 山根さん、みこちゃんと、どうかちゃんとケンカしましょ。

 私は狂犬ではない。その嘘が許せないだけ。お話してください。

 それできないんだったら、全部あなた、嘘つきですよ。


 下記は過去の記事の編集ですが
、山根さんに読んでいただけるようきちんと編集し直しました。きちんと渾身で書き直しました。お読みいただければ幸いです。


 世の中には、争いごとを好まない人がいるようだ。その人は優しい顔で「喧嘩両成敗」を勧めることに特徴がある。

「喧嘩両成敗」とは、その成立条件の根本に自分が当事者であることから距離を置くことが必要だ。距離を置くとはどのようなことだろう。それは、何が正しくて、何が正しくないか、という真摯な問いかけを棚に上げることだ。

 自分はどう思うのか、自分はどう感じるのか、自分の譲れないものはなにか。自分が守るべき人はだれなのか。これは自分自身に対する真摯な問いかけなしには見えてこない。つまり、「喧嘩両成敗」の誕生には、自分の真摯さというものの棚上げが不可欠なのである。

 極端に争い事を忌避する人は、心優しい人なのだろうか。否、単に臆病なのである。

 本当の優しさは孤独に耐える強さが必要。本当の優しさを知っている人は、自分に真摯だ。自分はどう思うのか、自分はどう感じるのか、自分の譲れないものはなにかについて、恐れずに自分自身に問いかけてみる。

 その問いかけが純粋であればあるほど、「どちらにも言い分がある」「喧嘩両成敗」という嘘くさい態度を離れて、どちらかの意見、主張が少数派であったとしても自分の実感と一致する場合には、口に出さなくても、行動に移さなくくても心のなかでそれを支持するだろう。

 それが本当に力を持ったサイレントマジョリティーを形成する。行動なんか伴わなくていい。そこまで勇気りんりんである必要はない、人が全員アンパンマンになる必要はないんだ。ただ、優しく沈黙すればいい。それはサイレントマジョリティーとして、同調圧力を伴わずに、静かに確かな目に見えない連帯感を生む。

 しかし臆病な精神は、優しく黙っていることができない。

 これが、たまたま空気感としてすでにそこにあったマジョリティの場合にはまだよい。しかし何か事件が起こり、どうしてもこれまで、安全装置として世間のみんなが、そして自分自身が棚に上げてきたことを突きつけられる場合、人には自分の結論は世間のみんなを敵に回すことになるのではないか、という恐れが生じる。

 臆病な人は、ものすごく恐れに対して敏感だ。恐れが自分の心の中にわずかでも芽生えそうな兆候をいち早く発見すると、その是非を問わずにいきなりそれに蓋をしようとする。

 つまり、喧嘩両成敗とは、双方に対して優しいということではなく、むしろその逆に、双方に対して臆病であることをごまかすための方便なのである。でも本当に臆病なのは、自分自身に向き合うこと対してじゃないのかな。

「喧嘩両成敗」が合言葉として成立する要件は、価値観の尊重、ダイバーシティなどとは似ても似つかない醜悪なナルシズムである。

 自分が当事者的視点を持たないこと。これこそが、自分自身に真摯に向き合うことを回避する一番手っ取り早く、確実な方法だからだ。

 その意味でsense of ownership、当事者意識とは世の中の森羅万象のすべてに当てはまると言える。この世の中に実は他人事なんてないんだ。テレビニュースの出来事も、ネットでの争いごとも、自分が見て見ぬ振りをしてきた教室のいじめられっ子も、自分はそのことをどう考えるのか、という自分への真摯な問いかけと無関係ではないのだ。

 もちろん、自分がそうした事象に対して、何か直接的に行動することがいつでも必要であるわけはない。忙しい現代人にそんな暇はない。しかしほんの一瞬でも良いから、それを自分はどう考えるのかを問うてみることを忌避する態度には、根深い臆病さがあることを思い出して欲しい。

 その臆病さが思考停止の安全装置として作動した時、優しい人は優しい顔をして「喧嘩両成敗」を勧めるのだ。自分に被害が及ばないために。ところが被害が及ばないというのは、まだまだ甘い見方であって、本音のところは自分自身に対する問いかけが恐ろしいからだ、というのが真相だろう。

 いじめる側にも理由があるという意見。これも喧嘩両成敗の醜悪でおぞましいな帰結だ。単純な話だよ。いじめっ子にそれは悪い、そう言ったら自分がいじめられちゃうよね。でも、いじめに加担することもできない。そこに思考停止装置が作動するのはしかたがないだろう。

 もっともいじめに関しては、喧嘩両成敗は少数派だ。だから優しい顔をした人は、このときだけ例外的に、いじめは絶対的に悪いと自信を持って言っている。でもなんのことはない、世の中の空気がいじめた側にも五分の魂がある、となるやいなや、ころっと喧嘩両成敗に変わるのだ。要するに自分なんてものがないから、ころころいくらでも変われるのだ。

 物事を判断することを長年巧妙に避けてきた結果、判断してマイノリティの結論が出てくる怖さもさることながら、そもそも自分自身には、自分が守りたい、生きているうえでこれだけは譲れない、という信念があるのかどうか、という、空っぽ、空虚な自分に直面する恐怖を忌避することがどうしても避けられなくなっているのだと思う。

 ゆえに、自分に真摯に向き合う恐怖を回避する方便のひとつが「喧嘩両成敗」である。理由は何であれ喧嘩をすることを忌み嫌うこと自体が、ことの是非よりも遥かに上位にあるというのは根本的な精神的倒錯なのだが、そもそも精神の領域を直視することを避けることを目的としてこの機序は成立しているので、倒錯と言うよりはむしろ、人間的精神の放棄と言った方が適当なのかも知れない。

 本当の優しさは、結論を恐れずに自分自身を直視するということを可能にする。だから、逆説的に本当の優しさを持っている人は、結論次第によっては攻撃的に見えることもあるのだ。しかしそれはただ、その人が自分自身に対して真摯であるからだろう。

 偽の優しさは臆病に根を発しているから我慢を伴う。私だって、我慢をしている。だから一方的に正義を主張するのではなく、喧嘩両成敗で相手の正義も尊重しましょうとなってその主張をせざるを得ない。サイレントマジョリティーに期待するには心が脆すぎて黙っていられないのだ。

 議論の成立しないところに、いきなり解決を持ち込む、いきなり暴力的に平和を押し付けるのが、臆病さを根に発する偽の優しい顔をした人の特徴だ。

 我慢は相手に直接縦方向に行かずに、日本的連帯として横に広がる。

 そして、連帯を求められた相手も、同じく臆病であるからその連帯要請を拒否できない。これこそ同調圧力の正体だ。

 ここに人を傷つけないという、庶民の憲法第九条が成立する。

 それを疑うことは許されない。

 よく見てみるが良い。優しい顔をした人の根深い臆病さと、それを隠蔽するために主張する偽の暴力反対の同調圧力と強烈な自己愛を。

 仮面を剥いで見れば、そこには武闘派の人間とは似ても似つかない、暴力をやむを得ず肯定する人間を、それ以上の暴力でねじ伏せようとする残忍なルサンチマンがうごめいている。

 実は他人へは誰ひとり優しくない。この人達が優しさを向ける相手はただ一人、自分だけだ。

 ヤクザやさんは、笑うと笑顔がとても素敵だ。本当の暴力の意味を知っているから。

 私に向けられた優しい人の笑い顔は…。

 私には、ヤクザに睨まれるよりよっぽど恐ろしい。
 でもいい。それでも。でも?恥ずかしくないのそれ。

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