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二人のみこちゃん~表現における「独創」と「再現性・共感」について

 今ごらんいただいているこのnoteは、小説とエッセイnoteです。もう一つは、マーケティング関係のnoteです。

 私はこの文学note(みこちゃん)では「独創」を追求し、もう一つのマーケティングみこちゃんでは「再現性・共感」を追求しているのだと思います。思いますというのは、作ったときはそれほどはっきり考えたわけうじゃなかったんですけど、この本を読んだら、そういう分類が頭に浮かんだのでした。

「出る杭は打たれる」一言で言えばテーマはこれです。企業の中での熾烈なそして、生々しい嫉妬や、諦め、天才創業者に対する尊敬などの葛藤をてんこ盛りにした面白い読み物でした。

 私の中でも二人のみこちゃんがいます。独創性を追求したいみこちゃん、そして再現性にこだわりたいみこちゃんです。

  この本の主題である「天才と凡人」に似ているのですが、ちょっと違う。でも大いに違う。私は自分の中の二人の自分を「独創」と「再現性・共感」だと思うのです。

 天才みこちゃんの書く文学noteと、凡人みこちゃんの書くマーケティングnoteじゃないわけですね!

独創性を追求したい文学note

 独創というよく聞く言葉は、けっこう深遠な哲学的含蓄のある言葉だと思うんです。人は独創的であろうとすると、人と違う自分、人より優越した自分をイメージしがちです。

 でも違う。みこちゃんはこれまでの人生自分を誰かと比べたことがないので、優越感というのがわからないです。その副産物として、劣等感というのも味わったことがありません。誰に話してもこれは(゚0゚)ナンノコトダカワカラナイ 状態になりますので、説明しますね。

 私の愛読する小林秀雄がこんなことを言っています。

 さほど親しくもない人が「あいつは変わり者だね」、こういうとなんだか、空気読めないやつだねと同じです。でも、長年連れ添った古女房が「うちの人は変わり者だから」と苦笑交じりでご近所で口にする時、これはとっても上質の惚気(ノロケ)になっているという趣旨でした。

 この話が大好きで、私が目指している生き方はこれだと、思春期の頃ハタと膝を打ったものでした。うすうす自分が変人であることは、ごく小さい頃から気がついていたのですが、開き直ればいいと天啓を受けたわけです。

 つまり、みこちゃん本体noteでめざしたいのは「みこちゃんは変わり者だね」と皆さんに暖かく苦笑してもらうnoteなのでした(^o^)/。

 これを私は「独創」と名付けます。天才の所業でもなく、そもそも天才の所業など目指しません。自分は天才じゃないからというネガティブな感情ではないのです。

 仮に「みこちゃんは天才だね」と誰かが間違って言っても、私は「みこちゃんは変わり者だね」と皆さんに暖かく苦笑してもらう方が好きなのです。

 だって、私の定義する、目指したい「独創性」とは「そうとしかいきられない、そうなっちゃう自分の生き方」の別名に他ならないからです。


再現性・共感を目指したいマーケティングnote

 一方で、マーケティングnoteでは、意識的にこの「独創性」を排除した文体を駆使しています。言い換えれば、誰でも読めば試すことのできるノウハウしか書いていません。だれでも真似できて楽しいよーというのが、マーケティングnoteなのです。ビジネス書のように徹底的にやり方に特化しています。

 文学noteのみこちゃんは、時に過激なので真似すると不幸になる恐れがありますが、マーケティングnoteは真似するとハッピーになれるはずです!

 真似というのは、独創性の対局にはないとみこちゃんは考えます。真似、ノウハウってなんて素晴らしいことだろうって思うんです。これも人に言うと、(゚0゚)ナンノコトダカワカラナイ 状態 になりますので説明します。みんな真似やノウハウというのを独創性より一段低い劣ったものと考えているのですが、みこちゃんはそうは思わないです。

 例えばです。

 お母さんが子供に、折り紙で鶴を折ってあげたとしましょう。初めて折り鶴の制作過程を目撃した子供は衝撃ですよ。自分のママは魔法使いかと思うでしょうね。

 もしこのママが勘違いヤローですと、そいつは子供の羨望の眼差しに優越感を持ち、子供が「僕も作りたい!」と目を輝かせても、いじわるして教えてくれないかもしれません。

さすがに現実のお母さんで、こどもにこういう優越感を持とうとする毒親は珍しいと思います。

 でも、私達はこれと同じことをついつい、職場で、学校でやってしまいます。自分の優位性を確保し、自分のポジションを確保するということが主な目的だとは思います。それは居場所の確保という点で必要になる場合がある(時にはかなり切実な、その場所で生き残る知恵である場合もある)ことも十分わかります。

 推薦書である『天才を殺す凡人』はまさに、職場におけるそういう例を沢山集めてあります。

 でも、それって根本的に違うでしょ、と言いたい!

 折り鶴の再現性を惜しみなく息子に伝えること。それは母親の優位性を脅かすことなどではありません。

 同様に、職場で、学校でおしみなく自分のノウハウの「再現性・共感」を与えること。これもまた自分の優位性を脅かすことなどではない、私はそう思います。

 なぜか。

 簡単です。自分で独創的に考えたわけでもない、天才の所業でもない、本を見たら、ネットを検索したら折り方なんてすぐに分かる鶴を折った時、子供の目はうるうるレベルで感動しているからです。

 それを見て自分も感動しない母親なんていないからです。その気持を想像してみれば、惜しみなくノウハウを提供することは、むしろ、再現性による共感をもたらすものだということに気がつくでしょう。 

 すでに世の中に知られている、誰か天才が発明したものを、わかりやすく説明する。そしてその人が喜んでくれる。楽しいじゃないですか、もしかすると世界で初めて鶴を折った人より、楽しいかもしれない。


 ハウツーとは、自分がほんの少し先に進んだこと、自分がかつて悩み、苦しみ、今はそれができるようになったことを最大限の混じりけのない愛を持って「再現性・共感」として表現することのはずです。

 天才と凡人。この二項対立は間違っています。世界で初めて折り鶴をあの形で創案した折り紙の天才と、それを習得してノウハウとして息子に提供するママとは、どちらが優れているなどという比較をすること自体が愚かなことなのです。

 ハウツーとは子供に折り鶴の折り方を教えることに他なりません。そして、ビジネス書とは、子供に折り鶴の折り方を教えることにほかなりません。むしろ独創的な学術書よりも、読んでいて興奮するかもね。だって、それは目を輝かせた子供が、お母さんに折り鶴を折ってもらっていることと同じだから。

「天才」と「凡人」、一度このどこかシニカルで冷たい言葉を「独創」と「再現性・共感」と置き換えてみてください。

 人は誰しも独創的(変わり者)であり、誰しも共感に喜ぶ生き物であるという当たり前のことに気がつくはずです。

 だって、人間は誰しも個性的なその人の大切な特別な日を楽しむ人あり、人から変わり者だと笑われ、同時に人は誰しも再現性を共感をもって楽しみ、何気ない日常生活の中にこそ幸せをかみしめる生き物だからです。

 その意味では、人はだれしも天才であり、同時に凡人であるということですね。

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