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【庵忠 茂作Xみこ対談 予備資料】ポツダム宣言は無条件降伏ではないのに……

この対談はすでに終了していますが、先行してみこちゃんのかつての記事を再掲載します。

日本人はとにかく謝ることが麻薬のように好きな国民です。謝ったら勝ち。謝ることが最上のマウントになる、というのは、かつてフリードリッヒ・ニーチェが批判した西洋のキリスト教文明の宿痾以上のものでしょう。

なぜ、こんなことになったのか。

かつての日本人はこうではなかった。

それは、ポツダム宣言が無条件降伏であると信じ込まされたからです。

ポツダム宣言は大日本帝国の無条件降伏勧告ではありません。どこにもそんなこと書いていないどころか、正反対のこと言ってます。

高校生でも分かる英語なので、一度ポツダム宣言の原文を読んでみるべきです。というか、これこそ検定歴史教科書に原文載せないといけないね。左翼さん……。これって載せられると都合が悪いのかな?

おかしいよね、ポツダム宣言のおかげで戦後の平和が実現したんでしょ?そんじゃ、素晴らしい文書じゃないですか。でも教科書に載せてしまうと、実はポツダム宣言が日本政府の無条件降伏でなかったことが、義務教育で明らかになっちゃうもんね……。

やれやれ、このとんでもなさが、日本の戦後教育なのです。ほとんどありえない世界です。

これは、じっくり記事にしていきますが、その前に、私のこの記事をご覧ください。

日本人のが人間としての誇りを取り戻すためには、別に中韓のがうるさく言ってくることに感情的に反発しなくていいのです。作られた都合のいい歴史を教えられているだけで、中韓の庶民さんが悪いわけではない。もちろんエリート層は歴史の事実を知っています。言うと不都合なので黙ってる。出世に響くとか、投獄されるとかで言わないだけ。

中韓嫌いな人さ、個人的な知り合いいる?中国や韓国の人で。みこちゃんの知り合いはいい人ばっかりだよ。

目をそこに向けてはいけない。

目を向けるべきは米国の占領政策WGIPです。

では、その前に、これをぜひご一読下さい。

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政治というものは、政治という「学」があるわけでも、政治という「術」があるわけでもない。あるのはただ、権力という鎧をまとうことによってかえって裸になる人間の本性だけだ。

 なぜ世界的問題児とも言える中国を賛美、そして韓国を擁護する日本人政治家がたくさんいるのか。

 それは唯一つ、謝罪の陶酔です。

 小さい頃にお母さんに「悪いことをしたら謝りなさい」と言われたことがある人が大半でしょう。謝れることは立派だと、親にも教師にも言われる。

 でももっとも大切なのはそれが、本当に悪いことだったのか、非を認めないといけないのか、それを親も教師もまず第一に一緒に考えるべきでしょう。

 いっつもいっつも、いじめられていて、それで勇気を振り絞って一発殴ったら、「どんな場合でも暴力はいけない」ということで「悪いことしたら謝りなさい」と言われる。

 その時、その子供は……。

 人に謝ることができる立派な子供だと称賛されます。ここから、原因なんかどうでもよくて、相手に謝ることが大事だ、波風を立てないようにしようという風潮が生まれる。そして、「え、本当に私は悪いの?」といういちばん大切なことは、信頼していた親、教師に理不尽に封印されて、謝ることで気持ちよくなる、謝ることで人に褒められるという自我を確立していく。

 なんのことはない。謝れる日本、謝れる自分ということで、自分が優位に立とう、自分を確立しようとしているんですよ。だから、謝らない人を攻撃する。だから、謝らない人には、自分はもう謝ったのにあなたはまだなの、という感情を抱くことになる。この感情は仲間内だからこそ、かえって掻き立てられる興味深い感情だ。

 謝るという行為は逆説的な言い方になるけど、もっとも効果的な武力行使であり、それも最高度に政治的な先制攻撃であるというのが、みこちゃんの昔からの見解です。

 根っこにあるのは謝ることの自己陶酔です。謝ることで自分を確立し、お母さんに褒められようとする。中国に飽きたら、こんどは「日本が他に謝罪するところはないかなあ」と探し始めます。韓国に飽きたら、今度はどっかの新聞社のように謝罪ネタを捏造しないと新聞が売れなくなります。

 マスコミも、それを喜ぶ人た日も、謝罪マニアというか、謝罪中毒、謝罪依存症です。だから自分のはっきりした政治的信条などないので、議論すると木っ端微塵に壊れてしまう。だって、謝ることこそが大切なのであってネタはなんでもいいからです。

 だから、そのような人は、常に常に自分が謝る対象を探していきます。だってそれしか自分を主張・維持できないから。

 ニーチェの批判した だめなキリスト教徒(キリスト教系の中高だったので良いキリスト教徒がいっぱいいることは知っています)と同じですね。

 なんじの左の頬を打たれたら、右の頬を張り倒せ。自分の娘がレイプされたら、そのバカ殺せ。これがどうしても正しく思えるのですが、この当たり前の考え方は現代社会では、逆説的な言い方になるけど、もっとも効果の望めない武力行使であり、それも最低度に政治的な先制攻撃であるといえる。

 つまり、謝罪を進んでする大人は高度に政治的でずる賢く(自分をも騙すという意味において)、武力を行使したがる大人したがる大人は…負け戦を進んで始める大馬鹿者だといえるでしょう。

 これはいいんだ。まだね。でもこれが高じると「だめなものはダメ」という理不尽な毒親になってしまうね。これもまた、野党政治の本質だ。ここにも、「なぜ、どこがダメなの」が消滅している。

 今の日本の与党政治家の一部は『謝れる日本』状態になっている。そして野党は『謝れる日本』で倒錯した自分を確立しようとする。主義主張ではない。だって、謝罪自体が陶酔なんだから。

 芸能人の不倫会見も、悪いことしたんだから謝りなさいってことだよね。必要ねえだろ、そんなの、当事者でもないのに。一般人のあんたらに謝罪する理由がない。それとも自分の女房を寝取られたか。そりゃあんたが甲斐性がないからだよ。

 二階幹事長なんてまだ分かりやすくていいんだよ。問題は河野洋平元衆議院議長のような人だと思う。二階さんは政治力学で消すことができるけど、河野洋平さんのような人は、政治では消せないからね。消すには、政治にも数ではなくて、文学が必要なんだ。

 『NOと言える日本』でも『謝れる日本』でもなく、本当の行き違いの原因は何か。それは、お互い自分の最も見たくないことを直視することからしか始まらない。自分の最も見たくないものは、自分の最大の武器で常に守られているね。

 だから、謝るのが大好きな人、謝らせるのが大好きな人、とんちんかんで噴飯ものの謝罪を要求する人の化けの皮を剥がすのに必要なのは、もっとも効果の望めない武力行使であり、それも最低度に政治的な先制攻撃なんだ。だって、相手は罪を犯したと思っていないんだから。

 それがお母さんが子供に教え込んだ罪深い魔法をとく、唯一の方法なんだ。

 殴り合いのあとにだけ、本当の相互理解が生まれる。

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