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無宗教の日本人がアベマリアを好きな理由

 こんちはー(^▽^)
 神を信じぬ傍若者みこちゃんです!

 大晦日には除夜の鐘をお寺でつき、お正月は明治神宮と靖国神社(爆)←ちゃんとお約束で入れておく( ̄▽ ̄)。ウエディングドレスのショーウインドウは横目でちゃんとチェックして、それよりなにより、中高はキリスト教系の学校だったよ!

 どうだ!見てみろ!神を信じまくっているじゃないか!

 確かに節操ないのですが、これを、全部贋物だという人は、逆に宗教心がないのではないかなと思えます。でもこれももしかすると、日本人独特の感性かもしれませんね。

 日本人はなにか特定の教義、戒律を守ることで宗教を実践するのではなく、異界に魂を移動させること、そしてまた異界から現世界にもどってくること、その往還の中に宗教心を実感する、そしてその往還思想を実践することを宗教とする民族なのではないかと、私は思います。

 この往って還ってくる、というのは親鸞聖人がとても感動的に弟子に説いています。

 念仏を唱えれば善人も悪人も浄土に行きます。んでもって現世を捨てなくってもいいよって……。なんか(゚0゚)すげーみこちゃん的(爆)。いえいえ、日本人的だと思いませんか。

 膨大過ぎて一生かかっても読めない大乗仏典ではありますが、みこちゃんは大乗仏教の本質は、異界に魂を移動させること、そしてまた異界から現世界にもどってくる往還思想にあるんじゃないかなとさえ思っております。これはまたいずれ書きたいと思います。行きっぱなしじゃないんだ。だから、親鸞の往生思想とは、この曲にこそ現れていると思うんだよね。


 真面目に言い直します。

 ひとつ。慈悲ということには、聖道の慈悲と浄土の慈悲の二つがちがってくる契機がある。聖道の慈悲というのは、ものを不憫に思い、悲しみ、たすけ育ててやることである。けれども思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである。また浄土の慈悲というのは、念仏を唱えて、いちずに仏になって、大慈大悲心をもって思うがままに自在に、衆生をたすけ益することを意味するはずである。今生においていかに人々を慈しみ、不憫に思っても、思いの通り助けることは難しいから、そうかんがえる慈悲はきりなく続くほかない。そうだとすれば称名念仏の道こそが、終わりまで透徹した大慈悲と申すべきであると、云々。      

『歎異抄』吉本隆明訳 強調みこちゃん

 どうですかこれ。みこちゃんは、この文章を読むと号泣に近い感じでえんえん、泣いてしまう。

 そして、一番最後の親鸞聖人の称名念仏(念仏を唱えること)って、なんちゃって仏教しかしらないみこちゃんに取っては、自分のできそうなことでいうと歌うこと(楽器を弾くこと)なのです。

 アベマリアって、西洋人はそんな風に歌ってないかな。歌っているに違いない。尋ねてみたことないけれど。小さい頃初めてこの曲聴いた時そんな風に思って、西洋人のお友達に尋ねたりすることなく、未だにそっと自分の妄想を大事にしています。みこちゃんの人生では、妄想こそ現実よりも大事だからです。

 

 そんなことを思いながらシューベルトの晩年の名作、アベマリアを探索してみましょう。まずは楽しい寄り道から(^-^)。

 大好きなアーチスト徳永英明さん。アベマリアのこれすごく好きです。でも徳永英明さんは多分キリスト教徒じゃないでしょう。これは、贋物なのでしょうか。とってもとってもシューベルトのこの曲の本質を捉えていると思います。

 この曲はドッペルドミナントというのが多用されているのです。

 ドッペルドミナントというのは、単純化するとこういう和声進行です。

 
 辞書的に言いますと、あるキーのドミナントコード(V7)を一時的なトニックと見立てた際に、そのドミナントに当たるコードです。

 普通のドミナント進行(ああ、曲が終わったな)っていうのはこうですよね。

 これが連続しているんです。

 起立礼着席っていうのがいつまでも連続する感じです。

 つまり一つの世界が終わったら、また別の世界が始まってまた起立して例して着席する、ドッペルドミナントのドッペルというのはドイツ語で、英語にするとダブル、という意味です。2つだけじゃなくて、曲想が変にならなければ、いくつでも連続させることができます。

 単純に終わらずに、一つの苦悩が、また別の苦悩に移り変わり、その苦悩がまた、別の苦悩を引き起こし……解決しそうで解決しないままに時は過ぎ……(念仏を唱え続け)という遍歴を経た後に最終的に、その調性のトニック(終止音)に至って曲が終わります。

 シューベルトはこの曲の途中遍歴にドッペルドミナントを非常に効果的に使っていて、みこちゃんは、その解決しない(一気に天国を目指していない)ところがとても日本的に思えるのです。

 解決しない遍歴、そんな風に、今度は徳永英明さんじゃなくてクラシックで聴いてみましょう。


 ドッペルドミナントが連続してなくて、アクセントで1箇所だけ使われているっていうのもけっこうありまして、これなんか1箇所使われていますね。

 9小節目のところに、Gis(ソのシャープ)が出てきますが、これは、この曲はニ長調なんですが、そのV7のA(ラ#ドミ)に行くときに、一瞬これをトニック(これで終止する)と見立てて、このAに対して、の仮象のドミナントをE7で用意するのです。E7はミ#ソシレとなっていて、この#ソとレがトライトーンという、不安定な分子結合みたいなのを作り出してどうしても、Aに行きたくなるのです。そのための臨時記号の#ソが、これです。

 ヘンデルさんは、曲の流れで話をそのまま解決せずに一回だけ、天国に行ってメサイア(キリスト教の神様)に会う前にハードルを設けている。それが、この#ソによる、ドッペルドミナント進行というわけです。

さっきの動画の9小節目をキャプチャしました

 これを何度も連続させているのがシューベルトのアベマリアです。

 このドッペルドミナントというのは、もともとはクラシックの技法なんですが、日本のポップスでもバンバン使われています。

 苦悩が解決せずに、また別の苦悩を引き起こし、それが一旦解決するかに見えて、また解決が引き伸ばされる。

 そう。あなたが、この曲の中で「いつ聴いても、ここってぐっときちゃうよな」と一人涙を流したくなる箇所がありますよね。音楽用語としてドッペルドミナントという言葉を聞いたことがなかったとしても、ユーミンのこの曲のあの部分(聴いて確かめてね)が好きだ、というあなたは、ドッペルドミナントをもうすでに理解しているのでした。


 ジャズでもいっぱい使われていますが、このドッペルドミナントの宝庫はJポップです。名曲が、聴ききれない程ドッペルドミナントを使って書かれています。
 
 やっぱり、日本人は往還思想が好きなんじゃないかな、と思います。

聖道の慈悲というのは、ものを不憫に思い、悲しみ、たすけ育ててやることである。けれども思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである。

歎異抄

 歌(うこと)とは洋の東西を問わず遍歴の中に聴こえる、菩薩道的な赦しの声なのではないかな、と思います。

 ではまた!


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