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涙が止まらない

こんな素敵なラブレターあるんだろうか…。

動揺を静めながら書き始めています。

性格的に損をしているな…。
そう思うときがよくありますし、実際に年上の方からやんわり、ときにはきつく、あんたって人は…。指摘されることがあります。

自分では自在に言語を操っているつもりですが、根本のところでコミュニケーションがヘタなんだなと思います。

そうじゃねーだろーこーだろーが、この年(アラサー)になってもストレートにでてしまいます。

これらは素直とかではなくて、端的に未熟者なんです。

言っていただけるうちが華だよなあといつも思っています。
そろそろ何か次のスッテップ踏まなきゃな…。と思っています。

教養は盗みだというのは、あくまで自分のことです。

わーわー喚いているだけです。
言いたかったのは、教養を決して武器にしてはいけないのではないか、それだけです。

「知識から教養に昇華する瞬間」
はい。
個人的体験がだれかに伝搬できるような普遍的経験に進化するようなものですね。
尊い瞬間だと思います。

「今あなたは怒りを感じて文章が読めなくなってるかもしれない。」

これは誤解があります。
わたしはこういうところで、まったく怒りなどは感じません。
もう最初っから頭まっ白状態です。

なんでここまで書いてくれるのかなあと、むしろ畏れながら読ませていただいています。

「でも教養は、そこでケンカになりそうな所に仲裁に入り、お互いの怒りに共感し、その上でなにが起きたか、何故誤解したかをケンカしそうな二人に納得させることです。」

はい、そのとおりです。

でもですね(笑)。

父親の教育がちょっと特殊でして…。

「人を尊重するなんてことほど、その人を貶めることはない。ぜったいに人は尊重するな」

というのがあります。言われたのは小学校低学年ですね。

ずっと悩んできました。

父のことは尊敬しています。ほとんどすべてのことは受け入れてきましたが、この言葉は難解でした。

どうやら、人を尊重するということは、父的には「認めてあげるよ」みたいになる。

そうじゃなくて悩みは一とことん緒に考えよう。

橋渡しとしての教養はいらない。

一緒に泣こう、そして笑おう。その場面で「教養」という一対一の個性を尊重するのはじゃまになるのではないのか、ということみたいです。

「でも明らかに「広い知識」みたいに誤解されているのを感じます。」

はい、わたしが撃ったのはそれです。
ほんとうの意味での教養は大事だと思います。

「私の理解の「教養」と、社会の多くのひとの「教養」には大きな乖離があることを、私は理解しようとおもいます。でもそっち(教養=広い知識、っていう受け取り)に「改宗」はしませんけどね。」

失礼ながら、同じ考え方なのではないかなと思います。
みこちゃんは、世間の多くの人の言う「教養」はちょっと違うんじゃないかと思うのです。

教養は経験であって、体験、ましてや読書体験などと考えてはいけない。
そう思います。もっと人とのふれあいの中で痛みや喜びを伴うもの。

「共感」「同情」

Empathyとsympathyですね。
人と暮らしていく中で最重要に大切なことだと思います。

分かるのですが、どうも、「他人を尊重するな」という父の教えがまだ理解できていないので(おそらくそれこそ禅問答のように重要なことを言っていると思うのですが)、思考の混乱が続いております。

「みこちゃんには素敵な教養人と知り合う機会があったらいいなと心から願っています。」

はい。

洋介パパなんてまさにそうですよ。

おしゃべりするのが楽しいです。
「それは違うんじゃないのお?」
みたいにもほんの僅かに、言ってくださります。

「ちらちら書いたけれど、私にもみこちゃんみたいな時期があった。」

はい。
生意気承知で書かせていただければ、きっとわたしと似た部分があるのかなと思いました。

みこちゃん 拝

追伸

「なんで日本語だとメソードになるんでしょうね?」

どっちかというとschool(流派)なんでしょうか。

鈴木先生を信じること。これはメソードテクニックではないと思いますです。流派だとその教えを信じるということになるかなあ。

今の自分が分からなくても、この人ならついていける、この考えなら時間をかけて分かりたい。

それが本当の教養なのかな。
信じることが教養の要諦なのかなと、そんな思いを持っています。

今後ともよろしくお願いいたします。

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