がらくた

祖母は美容師だった。
おばあちゃんち、といえば美容院。
小さなテレビと鏡の前にある二台のオレンジ色の回転椅子。
暗いシャンプー台。
髪を乾かすための大きな扇風機のような機械は三台だっただろうか。
私の記憶のなかのおばあちゃんちは散らかっている。
そこら辺に置いてある漫画雑誌を読みながら、椅子に座ってくるくる回ってはよく怒られていた。
漫画の好きな叔父が買ったスレイヤーズやらドラクエやら、もはや思い出せないくらいの漫画本が置いてあった。
小学生だったけれど、OL進化論がとても好きだった。

幼い頃から祖母に髪を切ってもらっていた。
いつも前髪を短くされすぎるのが嫌だった。
まっすぐ前を向いて、と言われるのも面倒だった。
小学6年生のときに髪を茶色く染めてパーマをかけた。
それも祖母にやってもらったとはっきりと覚えてはいないが、大丈夫なの?と言われた記憶だけはある。
母が暗に咎められていたのも覚えている。
中学生になる直前、担任に、先輩に目をつけられるから黒くしたほうがいいかもねえ、と言われた。
出る杭になりたがらない性格だった私は、さらっと黒髪に戻した。

おばあちゃんちには、常連さんがいた。
よく覚えているのはMさん。
祖母がほとんど髪を切る仕事をしなくなっても通い続けていた。
いわゆるオネエのような雰囲気で、たぶん、元々は男性なのだろう。
いつも厚化粧をして、喉が乾かないのかと思うほど喋る。
祖母はそんなMさんの話をいつもよく聞いていた。
私の中でMさんは、会えたらいいことがあるという、ラッキーパーソンだった。
実際にいいことがあったのかは覚えていないけれど。

中学生のとき、友達と、自転車で二時間近くかけておばあちゃんちに行ったことがある。
おばあちゃんちに行こうと始めから思っていたわけではなく、流れで、気づいたら、おばあちゃんちに着いていた。
祖母は驚いて飲み物を出してくれた。
コーラは骨を溶かすからだめ、でも三ツ矢サイダーはいい。
謎の祖母の理論に則り、三ツ矢サイダーを飲んだ。
がんばって来てくれたから、と、友達にも私にもお小遣いをくれた。
そのお小遣いで寄り道をしながら帰った。

祖父と祖母と三人でこたつに入って寝転びながら水戸黄門を見た。
水戸黄門の決め台詞が何か知っているかと祖父に言われ、このこうもんがめにはいらぬか!でしょ、と答えた。
祖父母は、こうもんの意味を知っているのかと笑った。
あまりに笑うので私も笑った。
笑いながら、おしりのことか、と思った。
おしりのことで笑う祖父母と孫の絵は、我がことながらとても幸せなものに思えた。

浴衣がほしい、と私が言った夏。
祖母は私のために一日時間を作ってくれ、浴衣探しの旅に出た。
祖母とふたりでデートなんて、あれが最初で最後だったかもしれない。
いくつもの店を見て、ああでもないこうでもない、と言いながら、紺色の浴衣を選んだ。
帯も好きなものを選ばせてくれ、私はピンクの帯を選んだ。
祖母は、よく似合う、と言った。

私は、祖母にとって初孫だった。
そして、唯一の孫でもあった。

祖母の体調が悪くなり入院することになった。
最初は会話もできていたけれど、だんだんとそれすらできなくなった。
衰弱しているのは手に取るようにわかった。

その日、私は地元のお祭りにいた。
祖母が買ってくれた浴衣を着て。
友達と、当時好きだった男の子がくるかどうか、浴衣姿を見てもらえるかどうか、どきどきするねと話しながら。
父から電話がきた。
おばあちゃんがもうだめかもしれない、すぐに病院に行くよ。
迎えに来た父の車に乗った。
何も流れていない車内で現実味がなくて、音楽を流そうとしたら父に叱られた。
しんとした車内は居心地悪く、もうだめだを信じたくない私は泣きそうになっていた。
ただ、この浴衣姿が、祖母の最期に間に合いますようにとぼんやり祈りながら。

そこからのことはあまり覚えていない。
ただ、間に合わなかったことだけは覚えている。

祖母と過ごした年月と、同じくらいの年月を私は重ねて大人になった。
それでも、髪を切るたびに思い出す。
浴衣を着るたびに思い出す。
そのたびに、祖母も私を思い出してくれているだろうか。

おばあちゃんちは壊され、今は家の隣の小屋しか残っていない。
あの美容院にもう行けないことが、思い出の中だけの存在になってしまったことが、ただひたすらに寂しい。
今、髪がとても伸びたんだよ。切ってほしいなあ。おばあちゃんに。

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