やりたいことがないのは、アドリブを効かせる余白を残しておきたいからだったと気づいた
一年の抱負を述べるのが、昔から苦手だ。
同じようなこととして、会社に勤めていたとき、四半期の目標を掲げるのがほんとうに苦手だった。なんとか頑張って、目標シートに、自分に求められているであろうことを推察して書くことはできた。
でも、上司が、ふと目を覗き込むようにして「お前は、ほんとうは何がやりたいの?」と聞かれた時、何にも出てこなくて困ったことが何度もある。
いや、上司は悪くないのであろう。マネジメントとはかくあるべし、だと思う。扱いにくく、評価しづらい社員だったろうなあと思う。でも仕方ない、ないものはないのだ。隠そうとしているわけでもないし。
去年、こういうツイートをした。年末に、翌年にやりたいことを羅列していくという、たのしみながら考えを整理できる遊びだ。昨年は38個、書き出すことができ、そのうちのかなりの量を叶えることができた。
あれを食べたい、ここに行きたい、など自分が手の届く質問ばかり挙げていたから、というのもあるが、1年を過ごす中で、面白がりながらスタンプラリーをつぶしていくように向き合えたのも事実だ。
やりたいことの一つ一つを書いたときには、一時のひらめきかもしれないけど、書き残しておくと、ふとしたタイミングで読み返したりするもので、書く意味があったなあと思う。やってよかった。
で、今年も終わりに近づいてきているので、同様に試みている。まだ、ぜんぜんやりたいことを見つけられていないのに、いいね数は増えててたいへんだ。みなさん、いつもありがとうございます。
きょう、マイコーチとの面談があった。そこでこの"来年やりたいこと"をもっと挙げてみたくて、「自分の想像外にある目標、やりたいこと」を深掘りしてみようと、それをテーマに話してみたのだが、最後まで、これというものは出てこなかった。
あれー?と思いながらも、「誰かと雑談している最中に『それいいね、やりたい、やろう!』ってなることはあるんですけどねえ」と伝えたら、マイコーチが、
「みずのさんは、アイデアを叶える準備が出来てるんですね」
というようなことを言ってくれて、あああと腑に落ちた。誰かのアイデアと、自分の発想を組み合わせて企画にすることにわくわくするほうなので、自分のやりたいことだけで成り立っている企画にそこまで食指が動かないのだ。
アイデアの種を、誰かとああだこうだ話す中で、ひらめいたり、落とし所がみつかったりすることに喜びを感じるので、「お題」があったり、誰かの困り事や、やりたいことが中心にあるといいなあと思うのだ。
元となるエネルギーがあるといいなあ、という意味では、襲いかかってきた暴漢をするりと遠くへ投げ飛ばす、合気道のようなイメージが近いかも、と感じている。
思えば子どもの頃からそうで、誰かの考えた遊びがじりっと停滞するときに、こうしたら?と投げかけるのが好きだった。事態を打開できていたかはともかくとして。
社会人になり四半期目標が書けない、のときも同じことで、のちの自分が活動する範囲を狭めたくないというか「アドリブの効く余白を残しておきたい」という願いがあるんだと思いが至った。
今となっては、そういったニュアンスまで含んだ考えを書き記し伝える方法があったとは思うが、まあ言ってしまえばただのワガママだなとも思う。そりゃあ管理しようとする会社組織とは折り合いがつかないはずで、フリーランスに向いてるわけだ、と今となっては思う。
🧸🧸
そんなような気づきを、今日は、コーチとのセッションで得ることができた。コーチングはこういうよくわからない問いを整理していくときに、本当にありがたいと感じる。
そういうわけで、誰かのアイデアに「そうそう!」と相槌を打ったり、ここぞというときのためにアドリブを効かせられるように、心も身体も健やかでありたいと思う。
ヘルシーにスタンバイしておくために、地道な下ごしらえをこつこつと積み重ねることを、来年のやりたいことに組み込んでおくか、ということで僕の悩みには決着がついた。けっこうスッキリした。
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