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VR空間をつくるということ(三日坊主視点)

この記事はBoze Advent Calendar 2020に登録されています。


こんにちは三日坊主です✨
普段は趣味で3DCGや映像をつくっていて、時々VR空間もつくっています。
早いもので、創作活動を始めてから2年半が過ぎました。ちょっとは色々つくれたのかなぁと思います✨

今回はこれまで色々VR空間をつくってきたことから思ったことをつらつら書いていきます✨


まず、VRとはなんなんでしょう?

virtual realityの略で、日本語訳にすると一般的には「仮想現実」と訳されますが、じつは「実質的現実」なんだよ、みたいなことが言われています。

ボクの中では、VRを観測し始めたころ(2017年)は割と「仮想現実」成分が多かったように思います。これはボクがvtuberを良く見ていたってのもあるかもです。例えば、当時vtuberさんがvirtualをテーマにした曲は「仮想現実」をメインに歌っているように思えましたし、他の方も割とそっち系だったのかなぁと思ったります。まぁ、 vtuberはvirtual youtuberの略なので、また別文脈だったとは思うのですが。
でも、最近、VRはボクの中で「実質的現実」に寄ってきています。memexの楽曲を聴くようになったのに始まり、ワールドをつくったり、色んな人と会話する中で考えが変わってきました。(仮想現実も実質的現実に包含されるとは思うのですが)

あと、ボクが思うVRは「選択肢を増加させるもの」です。アバターの見た目や大きさ、物質側では存在し得ないVR空間、移動の仕方等、明らかに物質側の選択肢よりも多い。これらを自由に選択できることがVRの良いところだなぁと思います。
てことで、いろーんな選択肢が増えた現実、みたいな捉え方をボクはしています✨

ほい、そんでそのVRの空間をつくるってことはどういうことなんでしょうか?
この話は多くの人がしているのと思うので、ボクの考えを書いていきます。

意思と環世界

VR空間をつくるということは必ず人の意思によるものです。対して物質側の空間は自然そのものの空間の中を人が切り開いたり、調和させたりしながら作っていると思います。

VRの空間は今のところ自然には発生しないです。ということは、その世界の存在の中には必ず意思があります。(これには意思の深さは関係ありません。)
もし、VR空間にゴミが落ちていたら、それは誰かが何かの意思で落としたのでしょう。

ちょっと話は変わって、私は環世界という考え方が好きです。

環世界

環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。

すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。

環世界の例としてよく出てくるのがマダニの例、マダニは視覚や聴覚を持っていないけど、嗅覚や触覚、温度感覚が優れています。通りかかった動物の酪酸の匂いと温度を感知し、それに飛びかかり、毛の少ないところを探して血を吸う。このマダニは匂いと触覚と温度だけの世界を捉えている…動物によって同じ環境にいても世界の捉え方は違っている。その動物が感じとれる世界を環世界という(ざっくりこんな感じだと思う)(なんか怒られそう)(違う場合言ってください!)

この環世界、人間の場合はそれぞれの人によって違うと思います。

同じ環境にいても、花が好きな人は花をよく感じとる世界にいるだろうし、石が好きな人は道端の石をよく感じる世界にいるのだろうし、詩が好きな人はその環境から詩を考えるのだろうし、それぞれの人で世界の感じ方は違います。それぞれの人が環世界を持っている。また、人はこの環世界を変えることもできます。経験から世界の見方が変わる。

生きていく中で、人は何らかの経験の連続性の中に取り込まれていると思います。それぞれの経験が世界の捉え方を構築して、それぞれの環世界を形成している。つまり、環世界は書き換わり続ける。創作物は自身の環世界の表出の一つで、人の環世界を書き換えうるものだと思います。誰かが書いた小説で世界の見え方が変わったり、誰かがつくった歌で自分の気持ちを理解したり、誰かが描いた絵で考えが変わるかもしれない。

何年か前に、美女と野獣の実写版を映画館でみました。映画の中で、エマワトソン演じるベルが野獣のアダムと本を読みながら、凍り付いたお城の庭を散歩するシーンがあります。そこで、ベルが凍り付いた世界の美しい描写を読みあげると、アダムは周りを見渡し、「こんな景色は初めて見た気がする」としみじみ言います。同じ景色を見ていたはずなのに、自分とは違う世界の捉え方が入ると、今までの世界の捉え方が変わる(ベルがいたからってのもあると思いますが)。まさに環世界が変わった瞬間なんだろうなぁと思った記憶です。

話は戻って、VR空間をつくるということは、何らかの意思が必要です。そして、VRではその意思の中に入り込むことができる。今は視覚と聴覚が主ですが、人が思い描いた世界に没入する。この体験こそ非常に尊いものだと思います。世界に没入するということは人の意思そのものの世界、場合によっては環世界そのもののに入ることができます。

その没入できる環世界を作り出すことこそがVR空間をつくるということだと思います。

VR空間をユーザーがアップロードできるサービスはいくつかあります。それぞれ色々な理念や方向性が違うので、あれですが、私はよくVRChatにVR空間をアップロードしています。これは、ある程度の自由度が保証されていて、そのワールドを人と共有できるからです。自分の環世界に人を招いて色々と話したり、楽しんでいるところを見ると、うれしい気持ちになります。初めて人が自分のワールドに来て感想をもらった時の気持ちは忘れられません。

↓因みに初めてつくったVR空間


今、ユーザーがある程度の自由度を持ってVR空間を投稿できるので、人々の意思の世界、環世界に直接没入できる。こんなことはかつてなかったことだと思います。その世界はその人の意思100%を体現できていないかもしれない。でも、意思を感じる空間には入ることができる…素晴らしいことです。

ボクはこの先の人類にとても期待しています。かつて人の環世界に実際に入ることは容易ではなかったと思います。その容易ではなかったことを誰でも誰かが体験できる環境が整った。誰かの環世界は人の環世界を書き換えうる。人類がかつてないほど人の環世界を体験できるようになった今、人の環世界はどのように書き換わっていくのか。その結果何が生まれるのか。怖い気持ちもありますが、楽しみでもあります。

何を書いているか良くわからなくなってきましたが、まとめると、VR空間をつくるということは、人の環世界に没入することができる体験を創造することだと思います。

人の世界に没入する選択、楽しいので是非✨

色んな世界を見たいね。

終わり

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