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【ウェディングノベル】自然なふたり

※個人情報保護の観点から、小説中に登場する固有名詞は架空のものに変えています。小説はご本人の許可を得た上で掲載しております。

◎達郎

 信号が黄色に変わる。
アクセルを強く踏めば間に合いそうだが、無理はしない。なんせ待ち合わせ時間までたっぷり余裕がある。右足をブレーキへ移動させた僕は、浮き足立った心を落ち着かせるように愛車をゆっくりと停止させた。
 まだ誰もいない助手席に視線をやると、数十分後にはそこに座っている彼女の姿よりも先に、初めて彼女の車の助手席に座った自分の姿を思い出してしまう。運転する彼女の目に僕はどのように映っていたのだろうか。それは初めて彼女に出会った夜でもあった。
「おまえ、今度の日曜の夜って予定あるの?」
「特にないですけど」
「四対四で合コンやるんだけど来てくれない?頼む!」
 会社の先輩から誘われた合コンは、盆休みの最終日に開かれるものだった。翌日が休みだったり、通常の日曜だったりならまだしも、十連休の最終日の合コンだ。翌日から始まる仕事のことを考えるとさすがに気が重いし、先輩の誘い方からして人数合わせに違いない。
だるいなぁ。内心ではそう思いながらも、他に予定があるわけではない。先輩からノリが悪い奴だと思われるのも嫌な性分だ。
「……分かりました」とりあえず行くことにした。
 合コンは静岡市内にある古風な居酒屋で開かれた。
男性陣は一足早く到着し、個室で待機している。「なんか俺今日いける気がするんだよね」と、隣に座った先輩が、何がいけるのかはよく分からないが、ビンゴゲームの前に必ず一人は言いそうなセリフを発している。でも、そういう人ほどビンゴが出ないことを僕は経験上知っている。そして、全く期待していない人に限ってビンゴが出てしまうことも。
 個室の扉ががらがらと開かれる。
女性が続々と個室に入ってくる。一人目、二人目、三……。
「ビンゴです!おめでとうございます!」そう誰かが祝福してくれる声が聞こえてくるようだった。ノースリーブの白いトップスを着た、細身の女性から目が離せない。
鮮やかな一目惚れだった——。
誘ってくれた先輩に「人数合わせだと思ってごめんなさい」と心の中で謝った僕は少し冷静になり、そもそもこの戦いは、司会者から指定された数字をただ押し開けていく受動的なビンゴゲームとは似て非なるもので、実はもっと能動的なサバイバルゲームのようなものであることを悟る。つまり、自らの力で勝利を掴み取っていかなければいけない。僕は戦国武将になった気分だった。
「小学生のとき持久走大会でどうしても一位になりたくて……大会の一ヶ月前から毎朝練習して、五年生のとき三位、六年生のとき一位になったんです」
そう話す彼女に「それはすごいです!」と普段の三割増しで反応を見せる。
 僕は昔から、根が真面目な人が好きだった。ただの真面目じゃなくて、根が真面目。
彼女はほかの女友達三人を車で連れてきたようで、手元にはオレンジジュースが置かれている。そんなところにも根の真面目さを感じ取りながら、僕はますます彼女に惹かれていった。絵里香と名乗る彼女は、僕より2歳年上だった。
ジュースの減り具合を確認しながら、程よいタイミングで「何か飲みますか?」と声をかけ、ここぞとばかりに気が遣えるところをアピールする。人狼ゲームをみんなで楽しみながらも、どうしたら彼女に僕を印象づけることができるのか、僕の頭の中はそんな考えでいっぱいだった。
「じゃあ二次会行きましょー」
 会は盛り上がり、全員で二次会に行くことに。十連休の最終日、明日から仕事という事実など、みなすっかり忘れてしまっているようだ。
 みながそそくさとお店を出ていく中、カバンを置いたまま席を立つ絵里香の姿を僕は見逃さなかった。彼女がお手洗いに行くことを悟った僕は、ひとり個室に残ることにした。
 絵里香が戻ってくる。
「待っててくれたの?」
「もちろんです」
「……ありがとう」
 拳を天高く突き上げたい気持ちだった。
二次会も一次会と同じように盛り上がり、あっという間に時が流れていった。できることならこの夢のような時間が止まってほしいが、そんなことはできない。僕の気持ちはすでに未来へと切り替わっていた。
これからいかに絵里香との関係を深めていくか——。
左手首につけた腕時計をちらりと見る。
——11時32分
自宅の最寄り駅までの終電は11時50分。今すぐ店を出ればじゅうぶん間に合うから、事情を説明して席を立つこともできる。
しかし、絵里香との関係を今後も深めていける画期的な方法を思いついてしまった僕は、そのまま席にとどまることにした。
車で来ている彼女が、帰り道にある僕の家に僕を送ることはそこまで負担ではない。たとえ軽だとしても、もう一人くらいは乗れるはずだ。そして、車で送ってもらうことで彼女と車内で過ごす時間に加え、もう一つ手に入るものがある。
彼女に個別で連絡する口実——。
「先日は車で送ってくださりありがとうございます」と、自然に連絡することができるのだ。
 ——許してくれ、僕は策士だ。
「すみません、うっかり終電を逃してしまって」と切り出す。何がうっかりだ、と思いながらも申し訳なさそうな表情はキープする。「もしよかったら車に乗っけてもらえないですかね……?」
「全然いいよ!」と即答する彼女。
 作戦成功だ。
「達郎くん、助手席座って〜」
 絵里香の幼馴染みのナイスアシストもあり、彼女の隣に座ることになった。何としても絵里香の気を引こうとする僕の鼻息が狼煙となって周囲に伝わっていたのかもしれない、と少しだけ恥ずかしくなりながらも、「いつかなんか奢る」と心の中で約束した。
 車内で何を話したかは覚えていない。ただ、絵里香がハンドルを握り、僕が助手席に座るそのひと時があまりにも幸せな時間であったことは覚えている。
信号が青に変わる。
アクセルを強く踏み過ぎてしまい、愛車がぶんと音を立てる。やはり浮ついた心はそう簡単には治められないようだ。
合コンで知り合った後、いきなり二人で会うのもどうかと思い、絵里香を誘って何回か合コンを重ねた。複数人で会う方が彼女にとって負担が少ないだろう、との判断だった。
そしていよいよ今日——二人きりの初デートに選んだのは名古屋。
 待ち合わせ場所に15分ほど早く到着する。しばらくして正面から駆け寄ってきた絵里香の姿を見つめながら、これから始まる夢のような時間を想像し、思わず笑みが溢れた。
 
*
 
◎絵里香
「美術館楽しかったねぇ」
「ほんと?よかった!」「です」
 年上の私に対して気を遣っているのだろう。タメ口と敬語が混ざり合う。「全然タメ口でいいのに」と内心思いながらも、そんな気遣いが可愛らしく、そのままにしておく。
 ハワイアンカフェの店内ではウクレレの音楽を背景に、アロハシャツを着た店員たちがハワイのゆったりしたイメージに似つかず、店内を目まぐるしく駆け回っている。やはり三連休の祝日のランチタイムは客が多い。
昼食をとるつもりで行ったのに、達郎はどうやらお腹が空いていないらしい。コーヒーをひとつずつ注文し、軽そうなアサイーボールとパンケーキを半分ずつ食べることにした。それでも彼はほとんど口に運ばず、結局ほとんど私が食べている。
きっと気疲れしちゃったんだろうなぁ。
彼は出会ってから今まで、ずっと私に気を遣い続けてくれた。
【今度の三連休、ふたりで名古屋の美術館に遊びに行きませんか】
 彼からそうラインが送られてきたとき、「さすが名門」と思った。彼の出身高校はその地域ではかなりの進学校で、達郎も東京の私立大学を卒業していた。だから、「達郎みたいに頭の良い人たちは休日にはるばる名古屋まで美術鑑賞に行くんだ」と思い込んでいた。
 でも、モネの『睡蓮』を鑑賞する彼の少し間の抜けた横顔を鑑賞しながら、「この人は美術に興味があるわけではない」と悟った。きっと、私が服飾専門学校を出たことを話していたから、彼なりに色々と頭を悩ませて、私のために美術館を選んでくれたんだろう。
「さすが達郎」と思った。
 初めて会った合コンでも、とにかく気を遣ってくれた印象がある。
第一印象が「少年!見るからに年下!」であったからだろうか、良い意味で期待を裏切られた。少年らしい不躾な振る舞いとは真逆で、むしろ年上だと錯覚してしまうほどジェントルマンに接してくれた。
「今日は私が払うよ。前回も全部払ってくれたし」
 次は私が払う、と前会ったときに約束していた。
「大丈夫。今日はデートなんですから」
 さらりと放つキザな言葉に思わず赤面する。
よくそんなこと平然と言えるなぁ。そう思いながらも嫌な気がしない。一見気取った言葉に聞こえるけど、実は飾り気のない真実な言葉だと分かるから心地よいのかもしれない。
「ありがとう。そしたら甘えるね……」
 その後、私たちは名古屋東照宮へ行き、御朱印をもらった。御朱印集めが趣味の私にとってはとても楽しい時間だった。隣で笑う彼も楽しそうで安心した。
 すっかり西日が眩しい時間となる。名古屋から静岡まで東名を使っても3時間はかかる。
 車内でグーグルマップをいじりながら、拓郎が提案する。
「静岡戻ったら海岸で花火でもしない?」
 は、はなび……?
きりりと胸の中心が痛む。このシチュエーションで花火といったら、そこで何が起こるかは大体予想がつく。
まだ出会ってから一ヶ月しか経っていないし、二人で遊ぶのは今回が初めてなのにさすがに早くない?と思う自分の横で、驚くほど冷静な自分がどしんと居座っていることに気づく。
あれこれ考えたって仕方ない。その時になれば、答えは自然と口から出てくるような気がした。
 
*
 
◎達郎
「静岡戻ったら海岸で花火でもしない?」
 上擦らずいつも通りのトーンで喋ることができた。
 刻々と勝負の時が近づく。今日はただの初デートではない。
もちろん、もう何回か二人きりのデートを重ねた上で気持ちを伝えた方が成功する確率が高まることは頭では分かる。でも、彼女のことを好きな気持ちは日ごとに膨らみ、これ以上押さえつけておくことができない。待ちきれないのだ。シンプルに。
デートの間中、平然さを装うことにはたぶん成功しているが、どうやら緊張しているらしい。僕の体は昔から感情に正直で、緊張するとどこかしらの内臓が痛くなる傾向にあるが、美術館を回っているときからずっと胃が痛いことは彼女には秘密だ。
名古屋から静岡に向かう道は恐ろしく混んでいた。
渋滞に引っかかり、アクセルとブレーキを交互に踏み直しながら、そのリズムに呼応するように頭の中で書いては消して、書いては消して。告白のセリフをあれこれと考えていた。
決戦の場所に選んだのは、静岡のとある海岸。
近くのスーパーで花火を買い、海岸の駐車場に愛車を停めた。二人で砂浜に足を踏み入れたときにはすっかり日は暮れていたが、優しい月明かりが意味ありげに僕たちを照らしてくれていた。
花火も終盤に差し掛かる。徐々に光を萎ませていく線香花火の二つの光を見つめながら、死ぬまで彼女と一緒にいたい気持ちが強くなるのを感じる。
一度深呼吸し、視線を横にいる彼女に向ける。
「……絵里香さん」
「どうした?」彼女も僕に顔を向ける。
「……好きだから、ずっと一緒にいたいから、お付き合いしてください」
 せっかく決めたセリフの三割くらいしか言えない。
「……私、まだ猫被ってるけどいいの?」
「大丈夫です」
 彼女は「猫被ってる」と言ったけど、僕はそんなことは全く思わない。彼女に個別ラインする口実を得るために、わざと終電を逃した僕の方がよっぽど猫被ってると思います。とは言えない。
「お願いします」
 2018年9月7日、僕たちの交際は始まった。
 
*
 
◎絵里香
「お願いします」という返答は、あまりにも自然と口から出てきた。
 ——好きだから、ずっと一緒にいたいから、お付き合いしてください。
 その真っ直ぐな告白から結婚を前提とした付き合いを彼が望んでいることは明白だったのに、もっと深刻に悩んだ上で答えを出してもおかしくなかったのに、自分でも驚くほどに即答していた。
 素直に嬉しかった。こんなにも私のことを心から好きになってくれる人がいるという事実が。水が上から下に向かって流れるのが自然の成り行きであるように、私がそこで「お願いします」と返答するのは自然の成り行きでどうしようもなかった。
 それから五ヶ月も経たないうちに私たちは同棲を始めた。
 出会って一ヶ月で付き合い、付き合って五ヶ月で同棲。大きな喧嘩もなかったから、端から見ればうまくいき過ぎたカップルに見えたに違いない。実際、幸せな毎日だった。
 一方で、彼と一緒に家で過ごす時間に窮屈さみたいなものを感じている自分もいた。
 几帳面でしっかり者の達郎は、掃除が趣味と誇ってもいいくらい、暇さえあれば散らかったものを整理整頓している。腕立て伏せも、腹筋運動も、毎日決めた回数きちんとこなし、風呂上りのストレッチも欠かさない。
 それに対して私は、どちらかというと掃除は苦手で、自ら好んでやるなんてもってのほか。彼みたいに一度決めたことをちゃんとこなすことも決して得意ではない。
 私ももっと頑張らなきゃ駄目だ。そんなプレッシャーを知らず知らずのうちに自分にかけていた。
 そんなある日のこと——。
 たまたま実家で用事があり、彼をひとり残して帰省した。久しぶりに誰の目も気にせずに自室でゴロゴロする。夕食の献立を考える必要もない。時間になったら美味しいご飯がダイニングテーブルに運ばれてくる。そんな貴重なひと時。
 21時過ぎ。彼の待つ家に着いた。
「ただいま」
「おかえり、遅かったね。ご飯どうする?」
「家で食べてきちゃったぁ」
「はぁ?待ってたんだよ?」彼の口調が荒くなる。
 えっ。夕ご飯を実家で食べてくることは予め伝えていたはずだ。
「食べてくるって言ったよね?」
「聞いてないよ!」
 言ったよ!絶対に言ったよ!
どうやら彼女と夕ご飯を家で一緒に食べることは、彼の中では風呂上りのストレッチみたいに決まりきったものだったようで、「今日に限って絵里香が実家で夕ご飯を食べる」というイレギュラーは右から左へ受け流されていたらしい。
「はぁ?言ったよ!」
 どう考えても私が正しいから、思わず強く当たってしまう。
「はぁ?そんなんなら別れるから!」逆ギレする達郎。
 ——なんでこんな些細なことで別れないといけないの?
 私は、無意識のうちに米びつを車に積み込んでいた。二人が食べていた米は私の実家で作っているものだったので、米びつを奪うことで彼が食べる米を断ってやろうとした。「もう米やらんわ」と心の中で呟き家を出たときには、スーパーで米を買えることなどすっかり忘れていた。そのくらいに混乱していた。
実家に舞い戻り、自分の部屋にぐたっと横たわる。
 私は悪くない。彼が悪い。だって実家で食べてくるって言ったもん。彼がそれを聞き流しているのが悪い。そのくせ私が悪いみたいな言い方をしてきて、一体なんなんだ!
そう繰り返し頭の中で唱えていると、また別の考えが浮かんでくる。
彼もストレスを感じていたんじゃないか。彼が望むほどに私も家事をできていなくて、実はそれを我慢してくれていたんじゃないか。そのストレスが爆発したきっかけが、たまたま今回の件であっただけ。つまり、原因は私にあるのかもしれない。
翌日の昼前、達郎が実家まで迎えに来た。
「昨日は言い過ぎた。申し訳なかった」彼は頭を下げた。
「大丈夫だよ」
 いつの間にか彼は髪を短く切っていた。反省の意味なんだろうか。
「大丈夫だよ」と言いながらも、私こそごめん、と内心思った。私ももっとしっかりするね、と心の中で誓う。
 彼の車に米びつを積み、私は助手席に座り、彼の運転で家まで戻った。
 
*
 
◎達郎
 深まる夜とともに僕の考えも深まっていく。
 この家から消えたのは絵里香と米びつ、たった二つなのに、まるで他人の家にいるかのようでソワソワが止まらない。それほどまでに彼女が僕の中で「なくてはならない存在」になっていたことを思い知らされる。
 失って初めて気づく、彼女の存在の大きさ。
 ——はぁ?そんなんなら別れるから!
 本当に別れたかったからああ言ったわけではない。僕があれだけ怒ってしまったのは、絵里香の手料理が食べたかったから。いや、絵里香の手料理を食べながら、もっと絵里香との愛を深めたかったから。強い憤りの裏側には彼女に対する強い愛情があったことを認識する。
 やっぱり僕は絵里香のことを愛してるんだ。
 その愛を素直に表現すればいいのに、むしろ正反対の強い憤りで表現してしまった自分がやるせなくて、自責の念が押し寄せる。
 素直に謝ろう。そして、今度はしっかり愛情を表現しよう。
 そう心に決めた。
翌朝——。
気持ち的にさっぱりしたくて、行きつけの美容室で髪を切る。その足で絵里香を実家まで迎えに行った。
 玄関口での彼女との再会。彼女は僕の髪をちらりと見た後、視線を僕の顔に移す。
反省の意味で髪を切ったわけではなく、気持ち的にさっぱりするために切ったのではあるが、いちいちそれを説明する必要もないし、反省の意味だと捉えられても損はない。
 彼女は一切責めることなく、僕を許してくれた。
 その日以来、僕はあの夜気づいた深い愛情を、憤りで誤魔化すことなく率直に表現するタイミングを伺っていた。「愛している」という言葉だけでは到底表現しきれないほどの愛。それをたった一つだけ表現できる方法があるとしたら、プロポーズしかなかった。
ずっと一緒にいたいほどに愛している、その愛——。
 ネットでプロポーズについて調べて派手な演出を妄想してみたりもしたけれど、彼女は自然な日常の中でされた方が嬉しいんじゃないか。そう考えて自然なプロポーズを選んだ。
そしてその日——。
2019年8月10日——出会いから1周年の記念日を選び、僕は有給を取った。
 彼女が仕事に行っている間に、彼女行きつけの花屋に足を運び、白い薔薇を40本買った。白い薔薇は「尊敬、純潔、清純」を、40本は「死ぬまで変わらない愛」を表しているらしい。僕の彼女に対する気持ちを最もよく表していると感じた。
 夕方となり、仕事を終えた彼女は何も知らずに帰宅する。
「ただいま」
「おかえり。はい」僕がひざまずきながら差し出した手には真っ白な薔薇の花束。
「ずっと一緒にいましょう」彼女の瞳を見つめ、真っ直ぐに伝える。「結婚してください」
一年前に海岸で告白したときと同じようにシンプルなセリフだが、今回は考えていた通りに百パーセント言えた。もっとシンプルに「結婚しよう」でもよかった。シンプルな言葉にありったけの想いを込めた。
「ちょっと待って」断る彼女。
 ダメなのか——。
 もっとちゃんとセリフを考えるべきだったのか。お洒落なフレンチレストランでデザートの蓋を開けたら指輪が入っているとか、普段は自然体を好む彼女も、プロポーズとなるとそういうロマンチックなシチュエーションを望むものなのか。作戦失敗なのか——。
 様々な思考が脳内を駆け巡り、脇が汗ばんでいくのを感じる。
「なんでパンツ一丁なの?」
「ああ」そこに対するちょっと待ってか、と僕は胸を撫で下ろす。
普段から家の中ではパンツ一丁で過ごしている僕は、この日に限ってスーツで格好つけるなんて自然体ではないと思ったのだ。パンツ一丁で白い薔薇をプレゼントする方がもっと自然体ではないよ、という悪魔か天使か分からぬ囁き声が聞こえてきた気もするが、自分の感覚を信じた。
「自然体がいいかな、と思って」
「何それ」彼女はくすりと笑った。「はい。喜んで」
「え?」
「だから、さっきの答えだよ。よろしくお願いします」
 にかっと笑った彼女の表情が忘れられない。
 死ぬまで変わらない愛を捧げる。そう誓った僕は台所へ行き、用意していた金目鯛の煮付けをダイニングテーブルへ運んだ。
 本当にめでたい夜だった。そしてこれからも永遠に。

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