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【ウェディングノベル】夢ノート

※個人情報保護の観点から、小説中に登場する固有名詞は架空のものに変えています。小説はご本人の許可を得た上で掲載しております。

◎千恵子

「叶えたい夢を全部、過去形で書いてしまったんです」

居間でテレビを観ていると、端麗な容姿に似合わぬ毒舌で近頃人気のある女子アナウンサーが、『夢ノート』なるものを公開していた。古びたノートには、無数の夢がどれも過去形で記入されていた。学生時代、テレビ局への就活がうまくいかずに悩んでいた彼女は、それでも将来に希望を持とうとまだ叶えられていない夢をリストアップし、全て過去形で記入してしまったそうだ。数年後に振り返ってみると、記入したほとんどの夢が実際に叶っていたというから驚きだ。

テレビの中のタレント達は、夢を実現する彼女なりの「方法」に感心していたが、私は、それほどまでして夢を叶えようとする彼女の「熱意」に感心していた。というよりは、若干引いてしまった。それほどまでして叶えたい夢がある、ということが信じられなかったのだ。

私はどこか、自分の将来に対して冷めていた。

「ちいちゃんも『夢ノート』作ったら?」母が唐突に言った。

「私なんて、夢も希望もないから無理だよ」と即答する。

 暫くの間、沈黙があった。テレビでは、あるタレントが小さい頃の夢を面白おかしく語りながら、聴衆の笑いを誘っている。しかし、母はすすり泣きを始めた。突然の訪問客がその場面だけを目撃したならば、笑いを狙ったタレントの発言が、どういうわけか母の心の琴線に触れたようにも見て取れるだろう。

「お前も将来のこと本気で考えろ」と、父も母を援護する。

 母が言う「夢」、父が言う「将来」が、何を意味しているかは容易に想像がついた。

 結婚——。

 結婚願望はあった。

ただ、仲の良い友人たちが次々と家庭を持つにつれ、出会いの機会は減った。これからは自分で積極的に機会を作らなければいけないと頭では分かっていても、ひとりで過ごす時間も好きだったので、するすると歳月が流れてきてしまったのだ。

 母の泣き顔を見るまで、父の不安げな横顔を見るまで、結婚は自分だけの問題だと思っていた。だから、立ち上がるのが難しかった。けれど、それは自分にとっての問題であると同時に、自分を育ててくれた人たちにとっての問題でもあった。

 ちゃんと良い人と結婚して、自分も幸せになって、親も安心させないと——。

その日、将来について初めて真剣に考えた。


それから約二ヶ月後。

私は、婚活パーティー会場にいた。

 名古屋市内で開かれた、男女八名ずつが集まる小さなイベントだった。二人がけのソファに男女が横並びになり、十分ほどお喋りする。それを八回繰り返す。最後に、八名の中から「またお話ししたいな」と思った相手を一名選ぶ。相手も自分を選んでくれていたとき、カップル成立となり、その後は「どうぞご自由に」といった具合だ。

 慎太郎さんとは、六回目のターンでペアになった。男性と面と向かって話すことに慣れていない私は緊張していたが、同い歳ということもあり、比較的打ち解けた雰囲気で楽しくお喋りすることができた。何より慎太郎さんの腰の低さ、よく相槌を打って話を聞いてくれることに好感を持った。

「千恵子さんの名前を一番に書くので、ぜひ千恵子さんもよろしくお願いします」

「私もそうしますね」

 会場を出た後、私たちは近くのデパートで昼ご飯を食べ、それからカフェへ移動し、十分間では到底共有しきれなかったお互いのことを、コーヒーを啜りながらあれこれ話した。好きなこと、嫌いなこと、職場のこと、家族のこと、結婚のこと、子どものこと、今までの人生のこと……。内容は多岐に渡り、結局三時間もそこで過ごすことになった。「チーズが好き」という共通点も見つかり、横浜のチーズカフェに一緒に行く約束もした。

「手を繋ごう」カフェを出ると、彼がそう言って手を差し出してくる。

「いいよ」まだ出会って半日しか経っていなかったけれど、抵抗は全くなかった。そのくらい彼に心が惹かれていた。

結局、夜ご飯まで一緒に食べて解散した。

駐車場に着いた私は、財布から五百円を取り出し、精算機に投入する。そこでふと、午前中に同じ駐車場で、「五百円払うからには絶対良い人見つけてやる」と意気込んだことを思い出す。

 この出会いは、五百円じゃ絶対に買えなかったよ——。

そう呟いた私は、軽やかな足取りで車へ乗り込み、エンジンをかけた。


*


◎慎太郎

 深海に広がる幻想的な世界を、彼女と手を繋いで前進する。

深海という環境も、彼女という存在も、人と手を繋ぐという行為も、そのどれもがそれまでの日常からかけ離れすぎていて、夢を見ている気分になる。

「あれは何?」彼女の声が聞こえる。

「……ああ、あれはテマリクラゲらしいよ」そうだ、横浜にデートに来ていたのだ。

 彼女と初めて会ってから、まだ一週間しか経っていない。

 僕たちは、深海世界をプロジェクションマッピングで再現した施設にいた。

暗い深海世界が、たったひとつの存在——光によって鮮やかに立ち現れる。それはちょうど、暗く見えなかった僕の将来が、彼女というたったひとりの存在によって照らし出されることによく似ていた。

 彼女に出会う前、特に二十代後半になってから、僕は将来のことを真剣に考えるようになり、それなりに頑張って婚活をしていた。遠方のイベントに参加することもあったくらいで、その中で様々な出会いはあったけれど、そのどれもが一過的なものだった。

 そんな日々が数年続いたある日のこと——。

「安くするので、明日もいらっしゃいませんか」

 彼女と出会う前日に、僕は名古屋の同じ会場で開かれた同じ形式のイベントに参加していたのだが、その時は良い出会いに恵まれず、そんな僕を見ていたスタッフが、去り際にそう声を掛けてくれたのだ。予感めいたものはなかった。けれど、せっかく誘ってくれたから参加することにした。ただそれだけだった。そして、そこで彼女と出会ったのだ。

 まったく、人生は何が起こるか分からない。

 最初話したとき、彼女はとても緊張していた。でも打ち解けた雰囲気になると、それまでとは打って変わって、自分のことを楽しそうに話してくれるようになった。そのギャップが愛らしく、彼女の価値観に共感できることも多く、すぐに好きになった。


 僕たちは深海世界を堪能した後、昼ご飯を食べ、横浜港へ歩いて向かった。

途中、赤レンガ倉庫を背景にツーショット写真を撮った。女性に「一緒に写真を撮ろう」と言われたのは初めてだった。些細なことかもしれないけれど、嬉しかった。そして、彼女はこれからも、僕にとって色んな「初めて」をくれる。彼女と一緒にいると、僕の世界が押し広げられていく。そんな予感がした。

 歩道橋を歩きながら横目で彼女を見る。

心なしか、まだどこか緊張の面持ちが見えた。

「キョウ、ヨコハマ、デンキ、イイネ。ヤクザズレ、イッパイ」

 何の脈絡もなく、ボビー・オロゴンの真似をした。数年前に人気のあった黒人タレントで、カタコトの日本語を独特のトーンで語ることで人気があった。ちなみに「デンキ」は「天気」を、「ヤクザズレ」は「家族連れ」を意味している。

 思ったよりもウケた。というよりは、相当ウケた。

隣で彼女が腹を抱えて笑っている。

調子に乗った僕は、そこからしばらく何気ない会話をボビー口調で続けた。おかげで彼女の緊張はすっかり解け、そこからはいっそう打ち解けた雰囲気で時間を共有することができた。

 横浜港に到着する。

夕暮れ時に吹きつける港風は思いのほか冷たく、僕たちから体温を奪った。

「これ、着ていいよ」彼女に上着を渡す。

「でも、そうしたら慎太郎くんが寒いでしょ?」戸惑う彼女。

「オレ、ガイコクジン、サムクナイ」

 外国人は薄着でも寒くないという完全なる偏見のもと、半袖でも寒くないアピールをした。

「誰?」またしても彼女は大爆笑している。

「マイクです」誰やねん、マイクって。と、自分でも思った。

 そんなたわいもないやり取りを何度も繰り返し、お目当てのチーズカフェで美味しいチーズ料理を満喫した僕たちは、楽しかった横浜に別れを告げ、帰路についた。

 高速道路は事故の影響で恐ろしく渋滞していた。普段は大嫌いな渋滞も、好きな人と共に過ごす時間を増やしてくれるから、この時だけは大歓迎だ。車内では、僕たちが大好きなYUIの音楽が流れている。

「もし大学のとき付き合ってたら、一緒にYUIのライブ行けたのにね」彼女が突然言った。

 一瞬、耳を疑った。

 もし大学のとき付き合ってたら?

ということは今、彼女は僕と付き合っている認識なのか? 

もしくはこれから付き合おうということを仄かしているのか? 

だとしたら告白する絶好のチャンスじゃないか? 

でもまだ会って一週間だし早くないか?

 あらゆる憶測がビックバンのごとく脳内で爆発し、急速に膨張を始め、まるで車内が真空状態になったかのように、外部から聞こえてきた全ての音声が遮断された。数分の後、四方八方に膨らんだあらゆる憶測は霧散し、最終的にはひとつの揺るがない事実だけが残った。

 僕は、彼女のことが好きだ。とても。

再び耳が開けると、カーステレオからはYUIの『CHERRY』が聞こえてくる。

 うん、僕は彼女に恋しちゃったんだ——。

 自分の気持ちに正直になることにした。


*


◎千恵子

「もし大学のとき付き合ってたら、一緒にYUIのライブ行けたのにね」

一瞬、車内を沈黙が覆った。

何か変なこと言っちゃった? 何だろう、この妙な間は? あっ……まだ付き合ってないんだった……。

一日中手を繋いで過ごしていたから、すっかり付き合っている気になっていた。

側から見ても、カップルにしか見えなかったに違いない。「私たち、実は付き合っていませんでした」と、道行く人に暴露したらさぞかし驚かれただろうな、と勝手に妄想した。

ひょっとすると私たちの関係は、恋愛に関する一般通念からは少しずれた位置にあったのかもしれない。だけど、付き合ってからじゃないと手を繋いではいけない、なんてルールはどこにもないし、大切なのは「お互いがきちんと合意しているか」だと思う。それが私たちにはあった。

港で上着を差し出されたとき、彼に無理をさせてしまっていると思い、私は恐縮した。そのまま渡されていたら、ただ申し訳なさが残ったはずだったけれど、そんな私の性格を分かってなのか、彼は奇妙な外国人の真似をすることで私を笑わせ、安心させてくれた。

そのさりげない優しさに、胸が温かくなった。

チーズカフェで注文した料理はどれも美味しかったけれど、量が多かった。持ち帰りができなかったため、食べきれなかったものはそのままテーブルに残して帰ることにした。

「せっかく作ってくださったのに、残してしまってすみません。でも、全部本当に美味しかったです」お会計のとき、彼が店員にそう言っていた。

 私に対してだけでなく、どんな人に対しても気を配れる人だと知り、ますます惹かれた。

そう、私は彼に恋しちゃったんだ——。

暗い車内で、彼が私に顔を向ける気配を感じる。前方車両のブレーキランプで、顔は微かに赤く染まって見えたけれど、実際にも少し赤らんでいたのかもしれない。

「結婚を前提に付き合ってください」

「はい、お願いします」それ以外の答えは、あり得なかった。

2019年10月10日——私たちの交際は始まった。


*


◎慎太郎

 それから僕たちは順調に愛を深めていった。

どのくらい順調だったかというと、交際を始めて二ヶ月後には結婚式場を予約していた。

人生の一大事である結婚なんだから、そんなに焦らず、もう少し慎重に検討するべきではなかったか、という意見もあるかもしれない。だけど、結婚を踏みとどまらせる要素は、僕たちの間に何ひとつ見つけることができなかったのだ。人間の一生を、壮大なジグソーパズルを完成させる作業に喩えるならば、そのパズルピースのちょうど半分を彼女が持っているように思えた。

僕にないものを彼女は持っている——。

彼女にないものを僕は持っている——。

僕たちは、お互いに補完し合いながら、ひとつの絵を一生かけて完成させていく運命なのだ。

結婚はお互いに合意していたけれど、正式なプロポーズはまだだった。彼女からは「いつしてくれるんだろう」という雰囲気が伝わってきていたが、たった一度きりのプロポーズは、彼女が最高に喜ぶタイミングと形でやってあげたかったのだ。

それが、2020年3月24日——彼女の誕生日。彼女の大好きな妹さんが働く結婚式場のチャペルで、だった。


「ちょっと腹が痛いのでトイレ行ってくるね」計画通り、僕は腹痛を装って席を立った。

 結婚式場のレストランで、彼女と一緒に豪華なフレンチ料理を楽しんでいる最中のことだ。僕はもともと腹が強くないので、「よくあることだ」と言わんばかりに、彼女はなんら不審がっていない。

 僕は足早に歩き、控え室に着くと、急いで一張羅に着替え、髪型を整え、花束と指輪を持ち、スタッフの指示に従ってチャペルの舞台袖へ移動した。

僕の準備が整ったタイミングで、「慎太郎さんが倒れた」とスタッフが彼女に声をかけ、彼女をチャペルへと誘導する段取りになっている。腹痛で倒れた相手がチャペルにいる、というのは冷静に考えたら謎すぎるが、もはやそんなことはどうでもいい。

 僕は大きく深呼吸し、彼女がやってくるのをひとり静かに待っている。

 微かな物音が聞こえる。チャペルへの扉を開く音だろう。同時に、地面をコツコツと叩く音が響く。彼女がやってきたのだろう。こちらから様子は見えない。この瞬間、彼女はどんな表情をしているんだろう。

 この後、彼女はある動画を見ることになっている。出会ってから今に至るまで、約半年間の思い出をまとめた動画だ。これまでの写真をかき集め、慣れないながら僕が作ったものだ。動画の最後で「今日は伝えたいことがあります」というテロップが流れ、そして舞台袖から僕が登場する段取りになっている。

 彼女との思い出が走馬灯のように蘇り、思わず目頭が熱くなる。

 きっと彼女も感動して涙を流すに違いない。

「慎太郎さん、どうぞ」スタッフの合図で目頭を拭った僕は、、舞台袖からゆっくりと移動し始める。

舞台袖から顔を出す。

天井から降り注ぐ照明が眩しい。

 彼女だ——。

 あれ? 泣いてないぞ。

なんだろう、あの薄ら笑いは。


*


◎千恵子

 動画を見ながら、彼と過ごした半年間を思い出していた。

そもそも、出会って半年しか経っていないという事実が信じられなかった。毎日ラインして、毎週末には遊びに行って、あまりにも濃密な時間を過ごしてきたから、まるで数年間も一緒に過ごしてきたかのようだった。彼との記憶には何ひとつ、悲しみや寂しさで覆われたものはなかった。どれもが、心からの喜びで彩られた記憶だった。

心の底から迫り上がる熱いものが目頭から溢れ出そうになった。

途中までは——。

スパイダーマンの被り物をした彼が、糸を掌から飛ばそうと全力で格好つけている写真を見たとき、感動を笑いが飲み込んでしまった。クリスマスに一緒にUSJに行ったときに撮った写真だ。彼はあの時だけでなく、あんな風におちゃらけて、私をいつも楽しませてくれた。

動画が終わり、パッと周囲が明るくなったかと思うと、彼が現れた。

真剣な面持ちにスパイダーマンの格好を重ね合わせてしまい、思わずニヤリとしてしまう。

私の前で跪いた彼は、とても緊張しているように見えた。

「今までお付き合いできて楽しかったし……幸せだったし……」緊張しているようで、なかなか言葉が出てこない。

「……これからもずっと一緒にいたいので、結婚してください」

「はい、もちろんです」

 結婚はすでに二人の中での決定事項ではあったけれど、やはりプロポーズは嬉しかった。不安でわずかに空いた心の隙間が、完全に満たされた感覚だった。


*


◎慎太郎

プロポーズから一週間後、僕たちは一緒に暮らし始めた。

これからは彼女と毎日会える。それ以上に嬉しいことはなかった。

だけど、住み慣れた環境を離れ、新しい人と一緒に生活をすることは、決して楽しいことばかりではなかった。いや、むしろ大変なことの方が多かったかもしれない。

一緒に暮らすことで、お互いの価値観の違いが露呈していく。そこにどう対処したらいいのか、経験の浅い僕にはよく分からなかった。

時にはひとりになりたい彼女と、ずっと一緒にいたい僕——。

そっとしておいて欲しい彼女と、放っておけない僕——。

ひとつの絵を完成させるために、僕たちが持ち合わせるパズルピースはそれぞれ異なって当然なのに、その違いが、僕たちの関係を妨げるものに思えてきてしまう。

 彼女が仕事に行っていたある日のこと。

仕事が休みだった僕は、一生懸命家事をした。家中をピカピカに掃除し、溜まっていた洗濯物を干し、最近買った料理本を凝視しながら真心を込めて料理を作った。彼女が僕に家事を教えてくれた。それも僕にとっては、貴重な初めての経験だった。

彼女を少しでも楽にさせたい——。

 だけど、帰ってきた彼女は仕事で疲れてしまったようで、機嫌が悪かった。

その態度に我慢できず、僕は家を飛び出した。

 その晩、親父と初めてちゃんと晩酌した。親父は、「家を飛び出すって、普通逆だろ?」と首を傾げていたけれど、横にいたお袋は、「私たちだってよく喧嘩してるから。みんな通る道だから大丈夫」と励ましてくれた。

 思い描いていた結婚生活とは少し違った。

けれど、僕たちがより幸せな家庭を築いていく上で、必要なプロセスだと確信している。川を流れる石が、互いにぶつかり合いながら磨かれていくように、僕たちも時にはぶつかり合いながら、相手と自分を真実に理解し、変わるべき部分を受け入れ、支え合いながら成長していくのだ。

その翌日、仕事が終わり、彼女と暮らす家に戻った僕は、ソース焼きそばを作った。ベランダの洗濯物も取り込み、丁寧に畳み、箪笥に仕舞った。全て彼女が教えてくれたことだ。

僕はもう一日だけ実家に戻ることにした。怒っていたからではない。彼女にもう少しだけ一人の時間を過ごしてもらいたい、という配慮からだった。

「疲れているだろうから、ゆっくり休んでください」と置き手紙を残した。


*


◎千恵子

 家に戻るとソースの良い香りがした。

ダイニングテーブルには置き手紙とともに、皿に盛った焼きそばが置いてある。皿に触れるとまだ生温かい。

 洗濯物を取り込もうとベランダを確認すると、全て取り込まれていた。まさかと思い、箪笥を開く。そこには取り込まれた洗濯物が整然と並べられていた。

 壁に掛けられた時計を確認する。

 18時15分——彼が普段仕事から帰ってくる時間から、まだ一時間も経っていない。

いつの間にこんなに早く家事をこなせるようになったのだろう。

 なかなかやりよるなあ——。

 指導した生徒の目覚ましい成長に驚く、部活の顧問のような気持ちだった。

 私は、幼い頃から人に素直になるのが苦手だった。特に、自分もよくできることであればあるほど、それをやってくれた人に対して、内心では感謝しているのだけれど、それを素直に表現するよりは、「そのくらいは私もできるな」という意地が出てきてしまうことが多かった。

 今までの人生は、それでも何とかなっていた。

 でも、彼と一緒に暮らし始めてから、それではいけないと気づくようになった。

 素直な彼に学ぶことが多い。相手の好意には「ありがとう」、自分の過ちには「ごめんね」、と、意地を捨てて表現していかないといけない。そんな簡単なことなのに、頭では分かっているのに、うまく伝えられない自分がもどかしい。

 それから、今までの私は疲れてしまったとき、誰かと一緒に乗り越えていく方法を知らなかった。ひとりで抱え込み、時とともに忘れていく方法を選んできた。だから一緒に暮らしてもなお、今まで通りのやり方を貫こうとする自分がいる。

 でも、これじゃだめだ。

これからは夫婦として一緒に生きていくんだから、少しずつでも変えていかないと——。

 翌日、仕事を終えて帰宅すると、彼がソファに座っていた。

「今までごめんね」

謝った。照れ臭かったけれど、目を見て、ちゃんと、謝った。

 彼は笑顔で応じてくれた。

ソファに横並んだ私たちは、それから率直に話し合い、「お互いどんなに機嫌が悪くても、家の中では最低限挨拶はしよう」と、家庭内ルールを決めた。

 台所に向かいながら私は、あの日——両親に将来について心配された日、心の片隅にそっと隠した『夢ノート』を勇気を出して広げ、叶えたい夢を確かに記入する。

【よく話し合いをする、思いやりに溢れた、良い夫婦になった】

 これからも喧嘩はするかもしれない。

一歩ずつかもしれない。

それでも私たちは、夢に向かって前進していく。

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