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菩提樹の下で君と出会った。
それは春が空気に馴染んだ恋の季節。
僕は温かな空気に誘われて、早る気持ちと少しの期待を胸に、狭いアパートの部屋の外へと飛び出した。浮かれるというのはこういうことなのかと思いながら、花の香りを目一杯吸い込む。レンガでできた古い街並を進みながら、道ゆく人たちに挨拶する。女性たちは愛想よく挨拶を返し、男たちはどこか片眉を釣り上げたり、僕を見てやれやれといった感じで目を回す。自分でもどこまで浮かれてるんだと思いながらも、すれ違う人々が親しい人のように感じる。そう思うほどに冬は長く冷たかった。
街の外れに丘があった。大きな菩提樹が枝を茂らす絵になる場所。ここで、彼女に出会った。体が弱く、でも勇敢なひと。初めて出会ったのは去年の秋。葉は夏の光を閉じ込めたかのように燃え上がった色に染まっていた。彼女は空気の澄んでいる午前中にこの木の下で本を読んでいた。淡い木漏れ日の中、長い茶色の髪が。同じ色のまつ毛が影を落とす顔が美しくて不覚にも見惚れてしまった。彼女が本から視線を僕の瞳へ移した。
『何の本を読んでるの?』
気まずくて、唐突に質問が口からこぼれ落ちた。彼女は二回ほどまばたきをすると本を閉じて表紙を見せてくれた。僕は首を振った。
『ごめん、字が読めないんだ』
あら、と彼女は初めて言葉を発した。耳に心地良い聞きやすい声だった。何を思ったのか、彼女は自分の隣に座るように促した。僕が彼女の横に座り込むと彼女は本を最初から読み上げてくれた。その本は引き離された恋人たちが共に生きようとする話だった。それでも僕の耳はお話よりも彼女の声を楽しんでいた。
しばらくして彼女はぴたりと読むのを辞めた。お話はまだ終わっていない。
『続きはまた明日』
彼女はそういうと丘を下って行った。僕はその後ろ姿が見えなくなった後もこの大きな樹の下で眺めていた。また明日も彼女に会える。
こうして何日か午前中からお昼になるまでの間、彼女は僕に本を読んでくれた。そのうち気がついたのだけれど、彼女は時折咳き込む。風邪かい? と尋ねると、肺が弱いのだと教えてくれた。読むのが辛かったら無理しなくていいと言えば、読むことで肺を鍛えることができるのだと言って、読み進めていた。綺麗なだけじゃなくて、心の強いところも素敵だと思った。
丘の上の木が枯れ始めた。酷く寒い冬が来た。
彼女は、丘の上で待っていた。僕が丘の上に到着する前から咳き込む音が不規則に耳を打つ。僕の顔が見えると彼女はほっとしたような顔をして僅かに微笑んだ。そして僕に一冊の本を手渡した。
『これは、読めるようになるための本。私は冬は外に出れない。だから、冬の間に読めるようにこの本で勉強してちょうだい。春になったらまた会いましょう』
そう言って僕たちはさよならした。
冬の間、僕は本を毎日睨んでいた。本は彼女のような姿をしていなければ、喋りもしない。当然だ。それでも開くとどうしてか読み方がわかってしまう。読めるのが不思議すぎて次第に面白くてのめり込んでいった。でも彼女への気持ちは薄れることはなく、だから冬の寂しさと冷たさが酷く嫌だった。
だから春になって僕は意気揚々と弾けるばかりの勢いで丘を駆け上った。若葉の生い茂る菩提樹の木の下には彼女が、いた。どこか以前より痩せて見えた。彼女は微笑んだ。どこか疲労の色が見えた。彼女は長いまつげをしばたかせると明るい茶色の目で僕を見た。
「読めるようになったのかしら」
僕らは一冊の本を、一文ずつ交代で読んだ。一章が読み終わった頃には彼女は満足げな顔をしていた。
「頑張ったね」
そう微笑むと彼女は樹にもたれかかって上を見上げた。僕も思わず彼女の視線の先を追った。菩提樹の葉の間からこぼれ落ちる光。淡くて美しい。ふと彼女が何を考えているのか知りたくなった。
「「あのね」」
僕らの声が重なった。僕は彼女に先を譲った。
「私、冬の間に、病気が悪化したの。それで隣の国の病院に入ることが決まったの。今日のお昼過ぎには出発するのよ。だからもう今日が最後」
ごめんね、と聞こえたかと思えば、彼女は立ち上がっていた。そしてあろうことにも僕を置いて丘を降りて行った。さらに向こうから知らない若い男がやってきて、彼女に手を差し出した。彼女はその手を取った。
追記:
菩提樹という言葉が好きです。この濁音で溢れてる感じが好きなのかな。どっしりとした感じの大きな木。いいですよねぇ。樹って素晴らしい。樹齢100年以上の樹って、私たちの知らない昔や世界を全身で感じて生きてきたわけですよね。世界のどこかでこんな話を樹が見守っていたこともあったかもしれません。そんな空想ごとです。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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