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展示が終わって初めて、二人の作品が完成した気がした。


展示終わりに、おたまちゃんが作った作品に私が手を加えた。そしてそれを見たおたまちゃんが泣いた。
この出来事は、私にとって、人生の転機を迎えたのかもしれないと思うくらい衝撃的な出来事であった。 言葉では綴りきれないくらいの大きな心の動き、感じたことを、今は、帰りの電車の中で、駅のホームのベンチで、この感覚が鮮明なうちに、できるだけ取りこぼさないようにと、ただただ必死に書き留めておく。
____ 今日はおたまちゃんと二人で行った展示「とけるわたしたち」の最終日であった。 最終日にも関わらずおたまちゃんは必死に作品を作り続けていて、終了する一時間前に、また、新しい作品が一つ展示に加えられていた。 基本的に自分たちが納得できるような展示になれば各々の表現は自由だよね、という共通の認識はあったが、めちゃくちゃ自由に作り続けているおたまちゃんの姿勢に、私はほんとに驚いていた。 最終日知人が何人か来てくれていたこともあり、おたまちゃんが終了一時間前に完成させた作品をじっくり見たのは、展示が終わってからだった。 見せてもらったその作品は、これまでおたまちゃんが考えてきたことを言葉にまとめた、50枚くらいの手作りの冊子だった。 全てのページが違う色や材質の紙を使用していて、所々くしゃくしゃになっていたり、燃えている箇所もある。 こんな手のかけた作品を、終了1時間前に展示することにしたおたまちゃんの行動が、私には本当にびっくりで、もうよく分からなくて、ただただ混乱した。 おたまちゃんは、「この作品は、今日最後にきてくれた私の大切な人たちとみきちゃんにちょっと見てもらえればそれで良いと思ったんだ」と言っていた。 びっくり。 展示をすることにしてから今日に至るまで、おたまちゃんは、展示をしようとしていたというより、”とける”というテーマと、自分と、ずっと戦い続けていたのだった。 展示期間中も、ずっとずっと考えて、表現し続けていたおたまちゃん。 そんな濃い時間の中で、おたまちゃんは最終的に、”とけるとは、自分に他者の存在が入り込む中で初めて完成するものだったんだ”という結論に至ったらしい。 その後、おたまちゃんは「この作品に、みきちゃんも何か加えて欲しい」と言った。 おたまちゃんがトイレに行っている数分間、私は鞄に入っていたボールペンでその中の3ページに、三つのシンプルな図のような絵を描いた。 今思うと、それは、おたまちゃんとこれまでたくさん話をした中で出てきた二人の間での共通のイメージを無意識に描いた絵だったように思う。 トイレから帰ってきたおたまちゃんが、その冊子の中から、私が絵を描き加えた3ページを見つけた。 そしてその時、彼女は私の前で泣いた。 その光景を見て、私も、これまで自分が考えてきた色んなことが繋がってゆくような感覚を覚えた。 これまで私が持っていた「相手のことをもっと知りたい」「相手が体感した体験を私も追体験したい」というような、”相手に溶けたい”という欲望や、その欲望によって突き動かされた表現活動の全ての終着点が、全部ここにあったかのように思えた瞬間だった。 「やっと完成した気がするなあ」と、 そんな言葉が、その時自然と私から発せられた。 自分と戦い続けて言葉を紡いだおたまちゃんの作品に、私という他人が、しかも彼女がトイレに行ってる間に手を加えた。 この行為は、側から見ると、他人の作品に落書きをするようなものであり、何の文脈もなく行われたものだったら罰せられるような行為である。 でも、今回は、その行為によって、表現者と鑑賞者、おたまちゃんと私、時間、展示といった、色んな境界線が心地よく優しくとけていったのだ。 この冊子は、おたまちゃんの作品であり、私の作品でもあるかもしれない。いや、今は、作品という言葉では収まりきれない何かであったような気もしている。二人が確かにその場所に一緒にいた、その軌跡そのものかもしれない。

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