失恋、失恋、大失恋


中1の付き合うを皮切りに、何人と付き合ったのか。数をカウントするのはいつからか止めた。
とにかく色んな恋をしてきた。
私の見た目に反して数が多いのは惚れっぽかった性格もある。
彼氏と呼ばれた幾人かの男の人達。
いつも別れは予兆があり、切り出すのは私。その時には気持ちは一切残ってない。
なぜなら新しい恋が待っていたり、環境が変わってしまったりで、ストンと冷めてしまうのである。

そんな私が一度だけ、たった一度だけ
純粋100%のド級の失恋したことがあった。笑っちゃう位、カッコ悪く、惨めな失恋をしたことがある。
泣いて泣いて、そのせいで、目が腫れて瞼にアレルギーを引き起こす始末であった。
今ではもう笑い話というか、そんな純粋な恋愛をした自分が羨ましい位、必死で一途な恋だった。
今回はそんな恋物語の失恋のお話であります。

その彼とは19歳頃には出会っていた。
彼はアルバイトしていた映像制作の会社の先輩で、音楽はYMOを聴き、フランスのみならず各国の映画に詳しかった。私がポスターに惹かれたまたま見たトリュフォーの大人は判ってくれないを、良い映画のセンスしてるじゃない?と褒めてくれた。
ならばとゴダールやヴィム・ヴェンダースなど沢山の映画を紹介された。
元々先輩と後輩の関係だった私達なので、先生と生徒のように色々教えて貰った。
1年近く好きでい続けた結果、ある日、友達に紹介する時「私の好きな人ではなく、彼氏でいいよ」と言われた。
毎日電話し、毎週末会っていたのだから今更なのだが、最初告白した時に遠回しに断られていた為、彼氏とは呼べずにいた私の、めげずに思い続けた想いが実ったのである。

2人で訪れた様々な東京の街。
私が好きだった代官山や下北沢よりも何故か浅草や鎌倉、高尾山など渋いとこへ行った記憶が残ってる。
また、ライブに通うのが趣味だった私にはあまり付き添ってはくれなかった。
だけど一緒に聞いた音楽の数々。
カセットテープをよく交換していた。
一番印象的だったのは、お互い、一番オススメな飛び切りお洒落なのを交換しよう!と交換した時の事。

私からは、知りたてだった、フリッパーズ・ギターの「海へ行くつもりじゃなかった」を渡し、彼からはピチカート・ファイヴの確か「ベリッシマ」を渡された。
佐々木さんでもなく、もちろん野宮さんは確かまだ未加入で、田島貴男さんボーカルの作品だった。
オリジナルラブをチェックしていた私にとってはピチカート・ファイヴはどハマり。
彼は細野晴臣さんのレーベルから出た幾つかのアーティストを勧めてくれたけど、ピチカート・ファイヴは特別だった。

そんな2人の関係に暗雲立ち込めたのは、私がレンタルビデオ屋のバイトからデザイン事務所へ転職し、さらなるステップアップでクラブキングという会社へ入ったことだった。

彼もまた、なにか表現する世界に憧れを抱き、出会った頃は写真の専門学校生だった。傍らに映像制作会社でアルバイトをしていたのだった。
映像制作会社のバイトといっても制作側ではなく、街頭のハイビジョン放送の裏でトラブルがないか機械を監視するだけのアルバイトだった。
私がグングン行動していくのを尻目に、何も変わらない彼。
歳も彼は私の2つ上で、出会った頃は21だった彼も24歳位になっていた。

因みに…クラブキングというのは、dictionaryというフリーペーパーを発行しており、私はそこの編集部に潜り込めたのであるのだが、
編集長は桑原茂一さんだった。
この方はYMO好きならほぼ皆知ってるスネークマンショーのプロデューサーで、日本に初めてピテカントロプスというクラブを作った方でもあり、日本のサブカルチャーやDJ文化を一身に牽引してきた方である。
dictionaryに載っているのはまだアンダーグラウンドで活躍していたアーティストの方々やDJの方々(でも後に有名になった方ばかり)だった。
既に有名な方々、もちろんYMOのメンバーも登場されていた。
フリッパーズ・ギターの2人も小さく載っていたこともあった。

今思えば彼はひと言、悔しかったんだとわかる。
自分の後輩で垢抜けないダサ子だった私に先越されたような感じだったのだろう。
なので入社が決まった時も全く喜んではくれず、まぁ頑張って。と突き放された。
歪みはその頃から出始めていた。
とにかく忙しい仕事で、入稿前は徹夜当たり前だし、dictionaryの配布やその他の作業で休日が潰れることはザラだった。
でもその合間を縫って、会いに行ってたし、その頃少し遠い所に住んでた私は、新大久保の彼のマンションは便利で泊まりにも行っていた。
だけど、会っても話し途中で疲れて寝てしまう私。よく腹も立てられていた。
それでも変わらず私達は音楽を一緒に聞いていた。
彼もCDではなくレコードを集めるようにもなっていった。
でも、あんなに素敵に響いてた彼の蘊蓄の数々も、実際活躍する方達のお話に比べると机上のなんちゃらというか、所謂感想にしか過ぎないレベルだと私は気付き始めていた。
何かにつけて喧嘩するようにもなっていた。
しばらく忙しく1ヶ月程放置していたある日、会うと彼はいつの間にか転職していた。
ようやく写真の道に進むべくスタジオで働くことにしたようだった。
その時彼は確か25歳、多分遅いスタートで、肉体的にもキツイとボヤいていた。
だけど、音を上げず仕事に通っていたようだった。
お互い仕事はキツイけど、こうして空いた時間楽しく過ごせればいいなと呑気に思っていた。
そんなある日…

前置きさせてください。
私は今から書くことがトラウマでその後一切、彼氏やパートナーとなった人の携帯はもちろん荷物の類を見たことはありません。
プライバシーは守るべきだし、見てもいい事なんかひとつもないと思ってます。もちろん自分の物を見られるのも勘弁して欲しいです。そんなパートナーと縁はありませんでしたが…

閑話休題。

ある日、狭い新大久保のマンションの部屋の中、ベットの前に手帳が置いてあった。
もう既に3・4年付き合ってた私達は双子のように互いの境界線が無くなるほど濃厚な時間を過ごしていた為、
私はなんの悪気も疑う気もなく、その手帳、日比野克彦さんのデザインが可愛いなぁと手に取って、見てしまったのである。

すると…
私と会ってない日にハートマークが記され、デート。と。
ある日には、アニエスベーのワンピースをプレゼント。とある。
私にはREADYSTEADYGOのパーカーだったのに。
パーカーとワンピースの違い。
それに全てが凝縮されていた。
そして、はらりと1枚写真も出てきた。そこには彼の好きな牧瀬里穂もびっくりの美少女がおり、スタジオで撮影されたものだった。
呆然となる私。
起きた彼に、聞いてみると同じスタジオで働く女の子で写真を撮ったのも彼と。
そして、申し訳ないけど僕達は終わりにしようと告げられました。

そこから私は病んだ。
まず仕事していても彼女の姿が浮かぶ。
電車に乗り彼女のような長い髪の女の子を見ただけで心臓が破裂しそうに痛くなった。
ものが全く食べられなくなり、あんなに楽しかった仕事も手がつかない。

結局、ある日、ウイスキーを1瓶と鎮痛剤1箱を飲んで、救急車に運ばれた。数日入院もさせられた。
彼は退院の日お見舞いにきてくれた。だが、もう東京には住ませられないと、親が迎えに来て、強制送還。
当時、北九州に実家があり、そこに住んだが、何をしてても彼の姿が消えない。会いたくても会える距離にはいない。会えても彼の心に私はいない。
その事実に打ちのめされる。

そんな中、彼から、父へ手紙が届いた。長い長い手紙だった。
それはワープロで打たれ、直筆よりワープロの方が素直になれるのでと彼らしい前置きが書かれてあった。
そこに書かれていたのは、東京という大都会の片隅で必死で生きながら、支え合う2人の若者の姿があった。
新しい彼女のことは綴られておらず、私が夢の世界へ飛び込みそこから歪みが生じたと告げられていた。

私は、もう、なんだか、良くなってしまった。
恋なんて、思い込みなんだと。
永遠なんてある訳もなく、いつか見たヴィム・ヴェンダースのパリテキサスのように、好き過ぎる余り、傷つけあってしまう関係もあるのだと。

そこからは初めて住んだ北九州の土地の良さや、またそこで始まった生活に馴染み、両親が毎週ドライブであちこち景色の良い所へ連れてってくれ、綺麗な景色に傷は癒えていった。
単純に時間も味方してくれた。

ちょっと長くなったけど、そんな私の失恋のお話。
今じゃ思い返すのに一苦労した程遠い記憶の事でした。


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