200624 私も敵を探し中

 一日12時間出勤が続いてしまい反省。今日は夕方にきっぱりと退勤ボタンを押した。
 退勤後、渋谷某所でまた貯蓄やら投資やらについての説明を聞く。お金の運用、という考え方にまだ慣れない自分を感じる。やってみれば慣れるのだろうか。とりあえず、今会社経由で入っている保険会社が、業界の中でもかなり保障の手厚い方だということを知った。
 そのあと定食を出す居酒屋でさんま定食を食べ、喫茶店でカモミールティーを飲む。帰りの電車で本を一冊。仕事の量も含めて、いろんなことが「適正」な一日だった。

 ここ数日に読んだものなどのメモ。
 Twitterでくだらない投稿ばかり見てしまう自分に嫌気が指して(全然見たいと思っていないし、見たところで何の満足も得られないのにただただ惰性でクリックしたりする)、それ以上に脳が「まともな言葉」に飢えて狂いそうで、最近は図書館から借りてきた詩集などをガツガツ読んでいた。
 といっても私は詩に詳しいわけではないので(詩の世界には、映画の世界でいうところのシネフィルみたいな詩愛好家が山ほどいる)ごくごくメジャーなものを選択。小学生のときに好きだった金子みすゞや、茨木のり子など。
 金子みすゞの視線の優しさは格別だ。水面や植物や空の向こうに”神様”を見通す、鋭いが険しくない眼差し。「そうして、そうして、神さまは、小ちゃな蜂のなかに」。こんな文章を生み出せてしまう精神ってなんなのだろう。
 「別冊太陽」の金子みすゞ特集号を読んで、改めてこの人の早逝を悲しいと思った。女性が無理やり結婚させられる時代でなければ、そして子どもの親権が100%父親にある時代でなければ、健康が許す限りあと何十年でも書けただろうに。
 みすゞの遺児である女性のインタビューが載っており、それもなかなか興味深く読んだ。「当時は死ぬときに子を連れていくのが当然の時代だったから、自分は母に置いていかれたのだとしか思えなかった」といったくだりに納得する。「置いていかれたという気持ち」自体を不思議に思ったことはなかったが、時代の価値観がそれなのだったら余計にだろう。
 茨木のり子の詩は、今読むと昔の何倍も刺さるということがわかった。「敵について」など、これは大人になってから読んでこそという感じがする。女の嘆き、怒りについてこれだけ鋭く書いていたのだということも、子どもの頃は理解できていなかった。これを機にもっと読みたい。
 詩集に加えて森瑤子の評伝、江國香織の『東京タワー』。
 それから、自分の書いた小説の切れっ端をまた読み直したりしていた。ある程度長いもの、そしてピリオドを打ったものを書いたのは去年の秋が最後だ。しかもそれは流れた企画のための小説だったので、純粋に書きたくて書いた体験は、いまやかなり昔の方に固まってしまっている。
 何作か読み返して、やっぱり悪くはないなと思った。よくないのは、ある程度筆がのってきたところでライターとしての色気が、つまり「もっと短くした方がいいのではないか」などの計算がはたらいて、調整が入ってきてしまうところだ。もっとのびのびと書く練習をしないといけない。

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。