200804 ゆるさへの警戒

 七連勤の週なので、身体をいたわろうと午前に休みをとって整骨院に行く。トリガーポイントマッサージをしてもらい、腰や首のねじれをメリッと直される。首が相当歪んでいたらしく、直されたあとに1.5倍くらい可動域が広がった感じがした。
 結婚式までに体の調子を整えておきたいので、ひとまず今月中に4回ほど通うことにする。ブライダルエステなんかより筋肉ほぐしだ。
 それにしても、私は整体やら整骨やらの人たちの、「普通のマッサージはこういうことしかやらないんですけど/こういう風にやってしまうと思うんですけどそれでは意味がありません。当院では根本解決のためにこういうことをします」という言い回しが苦手だ。営業トークとしてやっているのは理解するがどうしてもうっとおしい。
 これは他のあらゆるジャンルにも当てはめられることだ。要はよくないタイプの宗教の勧誘なのだ。他の足りないところを強調し、自分たちを選ばせようとすること。広い意味では相手の自由を奪うための「呪いかけ」でもある。そして、私はこういう戦術にかなり敏感だ。普通の会話でも、無意識的にこういうことをする人は無数にいる。
 ともかく単純に、「他は間違っているがうちは正しい」という話し方は、どう頑張ったところで品がないと思う。もちろん相手が間違った知識を持ってきてしまった場合は正した方がいいが、そうでない場合はあまりそればかりで押し切ろうとするべきではない。私なんかは、もう10年くらいいろんな施術を受けており、整体で言われることは毎度判子で押したように同じなので、聞く度にまたかとイライラしてしまう。
 仕事を終えたあとは図書館へ行った。図書館に向かってのろのろ歩いている途中で、今書いているものを進めるための大きなヒントを得る。そのヒントに沿って資料を集めて、手提げにぎっしりつめて持って帰った。

 資料の一部として、『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』を少しだけ読んだ。
 私はかねがね、このアカウントがアピールする「ゆるさ」に対してどうにも警戒心があったのだがその理由がわかった。原理主義的な考えを、わざと柔らかく見せているものは私は苦手なのである。深い信仰心と自由な行動の融合はあり得ると私も信じているが、これがそうなのかというと個人的には疑問がある。
 「宗教は嫌いだけど上馬キリスト教会のアカウントは好き」という書き込みをちょくちょく見かける。そういう感情の表明の仕方(さして本気ではない、ということがこの姿勢のポイントなのだが)、それこそが宗教の悪しき面を増幅させる材料になる気が、どうしてもしてしまう。
 あらゆる広報にはユーモアが必要だし、宗教で笑いをとってはいけないとも思わない。だけど、そういう考え方とは別の点で私はあまりこの方向性が好きではないな、ということを再認識した。

朝 塩ロールパンを二つ
昼 さんまの開き 味噌汁 菜葉の煮物 ご飯
夜 キムチ豚肉炒めの残り 目玉焼き アボカドとトマトのサラダ 納豆 ご飯
そろそろまたファスティングをする。

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。