Zakkann

  • アラヤ識。水槽を満たす可能性の総体としての言葉。その流体は連続体は現実界への顕現を待つ。

  • 存在は時間のうちに現成する。つまり、存在とは時間そのものに他ならない。では時間とは何か。それは直線的な連続体であろうか。すなわち、過去と現在と未来とが、順に流れ行くような連続体であろうか。

  • 我々は過去を思うとき、決してそれが在ったと考えてはならない。過去は物自体である。「過去があった」のは今この瞬間に私によって想起されたそれであり、それ自体が含み持つ時間性を認識しようとするのは、悟性の僭越でしかない。

  • しかし、現に今ここに私がいるという事実はどのように考えればよいのだろうか。これについて考えるとき、我々は過去が存在することをまさに要請する。つまり超越論である。

  • 超越論は二重化する。現にあること、それが今私の目の前にあるということを捉えること自体すでに超越論的である。そしてまた、それを捉えることができるのは、それを捉えうる能力を自身が有していること、このことが超越論的に想定されている。

  • 事態のエレメント。時間が注ぎ込まれる空虚な空間。それを私は要請する。有時経歴。過去と未来が、現在として私が認識するパノラマと化する。歴史とは進歩するとか繰り返すとか、このような物言いはその連続性があまりにも保存され過ぎている。私は、ベンヤミンのいうようにこの連続体を爆砕しそれを取り出さねばならない。メシヤによる救済。その衝撃で一瞬にして結晶するそれがモナドであり、事態のエレメントを満たす唯一の実体なのである。

  • ナラティブ。私は、いや全ての人は不条理な論証の犠牲者である。哲学は、理性は、現実と私の間を引き裂く。この裂け目を前にした立ち往生から導かれる結論は、「MEVM EST」の塔を登った一人の人間の結末を参照するのがよい。こういった思考的なものは我々を歩ませようとするが故に、我々はその裂け目に飲み込まれざるを得ないのだ。ではどうすればよいのか。立ち止まらなければならない。そこで現象するもの、それを語り出そうとすることだ。

  • 声はシニフィアンの形態であると同時にシニフィエへの志向性を持つ。ノエマへと自らを乗り出す、自らがそうであると自らによって示そうとする存在自体である。

  • カムイ。カムイは人間と対等な関係にある。鮭を撒き、鹿を撒く。我々の世界を周遊するために矢を掴みにゆくフクロウ。我々は経験可能な質料を備えた実在しか経験できない、純粋に知性的なものを経験によって知ることはできない。つまり私が得た神の認識は時空間の中、世界の内側の事象ではない。

  • テュポンあるいはセト。それはデシェレトのカオスである。秩序の外にあってその解体の隙を常に伺う。デュオニソスと庭園の侘び寂びとはこうしてひとつの概念に縮退する。しかしこれらが本質的に有するのは認識不可能性であり、構想力は限界に遭遇する。この限界でただ立ち止まらざるを得ないとき、感情における屈服すなわち不快が我々を捉えるのだが、理性はただ黙してはいない、この瞬間において初めて構想力を僭越させんと働くのである。これが崇高である。ここに一つの揚棄的な感情が芽生える。

  • さらなる不快。父。我々は去勢の恐怖に抗い、この抑圧を排除しようとする。父、神、権力、社会・国家、労働! 否定は転じて肯定となりうる。

  • 否定による肯定と、肯定による肯定。ここにあるのは一であり同である。それは多ではなく、異でもない。この同一性の肯定を我々は自覚すべきである。一見矛盾的なものは大抵、ある尺度によってその矛盾が捉えられているに過ぎない。つまり、実質的には同一なのである。相矛盾するものの集合は多であるように思われる、そしてそれは言葉の上では多様性を備えた集合である。しかしその真の実体を想起してみれば、まさにそれは皮相的な多様性でしかないだろう。

  • 「学ぶとは想起することである」とソクラテスは説いた。ならば、我々が学びうるものとは、それがアプリオリにしろアポステリオリにしろ、我々自身と根源的に一であったもの、つまり我々との同一性を備えた実在である。従って真に異他的なものは理解し得ない(それどころかそのようなものを対象として認識しうるかどうかすらも怪しい)。そうして、一つのある命題が帰結する。「多様性の尊重」と言うとき、真の意味でそのスローガンを全うしようとするならば、我々は多様体それ自体を「理解してはならない」。

  • 自然の運動は機械論的である。我々はその運動に「目的のようなもの」を見出すが、これは全く偶然的なことである。しかし、その合目的性は常に、経験において触知される。自然は自然の内部においてその目的を出来させ、それを我々が認識するのである。つまり、自然はその目的を実現させるためには理性を必要とする。これをドゥルーズは、「自然の狡智」と呼んだ。もし人間の存在に何事かの意味があるとすれば、それは快楽にふけることや幸福を実現することではあり得ないだろう。我々は自然の機械運動に従属するだけの存在ではないのだ。

  • しかし、一方で我々は「理性の狡智」にも組み込まれている。精神現象としての世界史。ナポレオンの登場は世界史を支配する精神が生み出した英雄なのだ。では、と誰かが問う。「私は、世界史が計画した一人物であるだろうか」と。

  • 分裂という名の一線を踏み越えた青年は、見事に「理性の狡智」の罠にかかってしまったわけだ。しかし一方で、その壮大な計画がこの私を必要としなかった可能性は大いにありうる。走り去ったトロイカの轍に足を取られる。「法律は決して偉大な人物を産みはしなかった」、そう叫んで大地を呪ったところで、あるのはただ怠惰に続く実存である。

  • 言語学的探究は文法性の前で停止せざるを得ない。アリストテレスとカテゴリー。この極点において飛躍が必要である。認識と実践の対称性と弁証運動。それはアラヤ識の水面から事態のエレメントに凝結した天を指差す氷筍である。ただし、それは絶えず生成・破壊する、反復運動の常に解体可能な実体である。

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