Oshaberi #2

 ウィトゲンシュタイン (『実践理性批判』を手に取って)私はこの本の著者である。
 カント おいおい盗作かい、それは僕のだよ。
 ウィトゲンシュタイン では理路整然と反論してくれたまえ。
 カント 僕はイマヌエル・カント。イマヌエル・カントは三批判の著作で批判哲学を体系化した。『実践理性批判』は三批判のうち第二批判と呼ばれるものだ。イマヌエル・カントは『実践理性批判』の著者である。イマヌエル・カントとはまさしくこの僕だ。というわけで私がこの本の著者だ。
 ウィトゲンシュタイン よろしい。じゃあこれは君に返すよ。
 カント どうして急にそんな変なことをするんだい。
 ウィトゲンシュタイン 君はさっき、君自身のバイオグラフィというか定義を持ち出したことで、僕の命題をまったく言葉を違えずに反論することに成功したが、よくよく考えると僕や君の主張は自明なようで自明ではないのだというような気がしてね。
 カント 「私はこの本の著者である」という主張についてかい。言われてみればそうだけれども、君にとって「私」はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインであって、僕にとって「私」はイマヌエル・カントである、それだけのことだと思うのだが。
 ウィトゲンシュタイン 今回の場合は確かにそうさ。というのも、今回の話は『実践理性批判』というこの三次元空間に物理的に存在するものの所在をめぐる話だったからだ。
 カント じゃあ、どういう場合に君はこのことを自明でない、というんだい。
 ウィトゲンシュタイン 例えば痛みについて考えてみよう。ほら、あそこでフリードリヒ(・ニーチェ)が本を読んでいるだろう。そしてよく見ていてくれ。彼は時々頭を抱えるような仕草をするんだ。
 カント そうだね。よく頭が痛いって言っているのを聞くよ。ああ、ほら頭を抱え出したぞ。彼は頭に痛みを持っ(have a headache)ているんだ。
 ウィトゲンシュタイン じゃあ、その「痛みを持つ」ということについて考えようじゃないか。君はあたかも、その痛みをある物理的実在であるかのように言ったね。彼が頭に痛みを持つとどうして言えるんだい。
 カント まずは、彼の仕草だ。彼はあの仕草の時によく痛いと言っている。現に今も口にしているね。もし仮に僕らがある装置を使って神経の興奮などを観測できるなら、そういうものによっても彼が痛みを持つことに同意できるだろう。これは至って科学的なやり方だと思うね。
 ウィトゲンシュタイン 確かにこれまでの科学的知見を持っていれば経験的に彼の痛みを観察できるだろう。しかしそれは本当に「持つべき」痛みなのかい?
 カント どうだろうか。
 ウィトゲンシュタイン ではこう考えてみてくれ。今度は君(の頭)が痛むと考えるんだ。君は自分の頭を指してこう言うだろう、「ここが痛いんだ」と。
 カント 確かにそう言うと思うよ。
 ウィトゲンシュタイン そしてこの時、君が言う「ここ」とは君の頭を指しているね。
 カント 無論。
 ウィトゲンシュタイン 君の頭は、この三次元空間に存在するものだ?
 カント 答えるまでもない、そのとおりさ。
 ウィトゲンシュタイン では、君の頭の位置は、この部屋においてあの壁から云m、あの壁から云m、床から云mの位置にあると言ってもいいかね。
 カント もちろん。
 ウィトゲンシュタイン ではこう言えてしまうぞ、君が頭にもつ痛みは三次元空間においてその位置を指示できるものであると。
 カント うーん、少し微妙な結論だね。確かに、それによって痛みのおおよその場所は指示できそうだが、それはまったく正確とは言えない。何より、僕自身、痛みの場所を座標指示出来るほど正確に理解しているとは思えないよ。こめかみのあたりをさして「ここが痛い」と言ったとしても、50mmずれていたっておかしくないわけだ。
 ウィトゲンシュタイン そのとおりだよ。もっとも、おそらく君は自分の哲学で内観と外在を分けて考えているから、今のような混乱はその取り違えと言って反論してくれてもいいんだけどね。それはさておき、もう少し進んでみよう。今度はこの痛みを感じるものであるということを前提にしてみよう。そして、こう問うんだ。「痛みを感じるのは誰か?」と。つまりこういう状況を考えるんだ。君と僕は一つの腕を共有している。共有の仕方は何でも良い、神経を繋いでいると考えてもいいし、テレパシー的なものでその触覚とコントロールを持っているとしてもいい。そしてその腕に蜂が刺すんだ。痛い!と君も僕も言うだろう。では問おう、その痛みは誰の痛みか?
 カント なるほど。そういう状況なら、僕も君も「痛い」と口にするわけだから、それぞれの内観のうちに、痛みの表象が現れているわけか。とりあえず単純な仮定として、僕を主体で考えてみるね。僕は自分の腕に痛みを感じる。そして、同じ痛みが君にも感じられていると考えられそうだ。
 ウィトゲンシュタイン そうだ。その痛みが君のものか僕のものかというのが問いだ。
 カント 君も痛がっているとはいえ、確かに僕にも痛みがあるのだから僕の痛みと言いたいところだ。
 ウィトゲンシュタイン よろしい。君はその痛みを紛れもなく自分の痛みだと主張するわけだ。
 カント 蜂に刺された瞬間に君がどう感じるにせよ、僕は本当の痛みを感じる。
 ウィトゲンシュタイン ではここで大胆な主張をしよう。「私が感じる痛みだけが本当の痛みである」と。
 カント おお、これはまた勝負に出たね。君の主張は、自分の痛みが真実であって、他人のそれは真実ともそうでないともいえないということだね。いいだろう。でも僕は反論するよ。「確かに私は他人の痛みを知ることはできないが、推測することはできるだろう」とね。
 ウィトゲンシュタイン イマヌエル、よく言ってくれた。しかしまだ僕はこの主張を取り下げるには至らないよ。「知る」と言う代わりに「推測する」と言ってみたところで問題の所在はまったく変わらない。それに「他人の痛みを知る」という言明の困難に君は十分気がつけていない。
 カント どういうことか。
 ウィトゲンシュタイン 君が転んで泣いてしまったとしよう。そして僕がこう言うと君はどう思うだろうか。「イマヌエル大丈夫か?君は痛いと泣いているが、その痛みを感じているのが君であることは確かなのか?」
 カント 随分とヘンテコな物言いだね。普通はそういう言い方はしない。
 ウィトゲンシュタイン そうさ。痛みを感じている主体の存在に疑いを挟むというのは飛んだルール違反ということだ。そういう範囲で僕らは考えている以上、痛みを感じるということについて誤るということは決して起きないものだ。
 カント うんうん。先の腕の話を思い出してみると、痛みの主体が取り違えられるということは起きない、誤りの可能性が排除されているからには、その真偽について問うことも少々おかしい気がする。
 ウィトゲンシュタイン だとすると、「他人の痛みを知る」ということは如何なる意味を持つのか。これはもう、まったく答えようのない問いだよ。
 カント そうだね。だけど思うのは、「他人の痛みを知る」ということのナンセンスに、僕らはたどり着いたわけだが、何かを知るということ自体は別に有意味な場合もあるよね?
 ウィトゲンシュタイン そう。例えば僕がカブトムシの入った箱を持っていたとする。そして君がこう言うんだ。「君はあまりに強情で、箱の中身を見せてくれないから、僕は君が箱の中にカブトムシを入れているのか知ることができない」とね。
 カント この場合、君が強情というところさえなんとかできれば、僕は箱の中を見て知ることは十分に可能というわけか。
 ウィトゲンシュタイン 僕のさっきの主張、「私が感じる痛みだけが本当の痛みである」というのは極めて独我論的な主張だ。そしてこれを主張する人間は、こう言うことだってできるわけだ。「僕が感じる痛みが本物である以上、他に見るもの考えるもの、僕の心に浮かぶもの全てが真実だ」と。そしてこう言い切ってしまった者に、「もしそうだとしたら、僕らが使っているあらゆる言葉のルールを作り替える必要が出てくるぞ」と言ってみたところでまったく意に介さないだろう。意外と手強いんだ、独我論者は。こんな困難に陥ってしまった者を治療するために君の力をもう少し、貸してくれないか、イマヌエル。
 カント いいとも、喜んで。


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