Imasara
まだ日も昇らぬ明け方に、
何やもわからぬ感傷が
私にApple music のアプリを開かせる。
指の導きに従って再生された幾曲かのうちに
椎名林檎の『野薔薇』が混じる。
もちろん、詞はゲーテ、曲はシューベルトのものだ。
しかし、そういえばドイツ語を読むようになってから聴いたことはなかったなと、布団を出てさっそく翻訳にとりかかる。
少年は見た、一輪の小さなばらが佇んでいるのを。
荒野に佇む小さなバラよ。
それはそれは若く美しかったので
近くで見ようと、少年は急いで駆け寄った。
目の前でしおらしくしているばらに心が満たされる。
ばらよ、ばらよ。
赤い小さなバラよ。
荒野に佇む赤いバラよ。
少年は言う。「僕は君を摘んでいこう。」
そしてばらは言う。「それなら私はこの棘であなたを刺すわ。
そうすればあなたはずっと私のことを想ってくれるし、
私は苦しまないで済むの。」
ばらよ、ばらよ。
赤い小さなバラよ。
荒野に佇む赤いバラを。
少年は乱暴にも折った、
荒野に佇む小さなバラを。
ばらは抵抗して彼を刺したが、
痛みだって嘆きだってまったく無駄なこと。
彼女はただ苦しまなくてはならなかった。
ばらよ、ばらよ。
赤い小さなばらよ。
荒野に佇む赤いバラは。
「佇む」という日本語は、だだっ広い空間にぽつんとある一輪の花の様子が、私の旧い記憶を刺激し、『百年の樹』の一本の木の情景と結び合わさって引き出されたものだ。
一度湧き出した記憶は、数珠つなぎのようにいくつかのフレーズを蘇らせる。『百年の樹』はAqua Timezのアルバム の一曲目なのだが、このアルバムの最後の曲『銀河鉄道の夜』にはこんなフレーズもある。
愛の痛みと棘のアナロジーは『野薔薇』にもあるもので、第1連と第3連の描写がそれぞれ、アルバムの1曲目と最後の曲とぴったり重なりあっている。偶然であろうか、私はさらなる結び目を探さざるを得ない。
* * *
このアルバムをフィーチャーしたライブ、そしてこのアルバムの中心曲『メメント・モリ』の前のポエトリーリーディングには、こんなフレーズもあったのだ。愛とエゴの境界に対する問いは、当時の私にとっても大変印象的であったことが思い出される。『野薔薇』の少年がこの問いに自覚的であったかどうかはさておき(おそらく、第3連で、「痛みも嘆きも」彼には通じなかったことから、無邪気さゆえに、その瞬間にはなんの問いも抱いていないことが想像される、そしてそれ故に彼の行動の悲劇性が浮かび上がってくるようには思えるが)、この詩全体を通底している想い(特に第2連の少年とばらのやり取りは、愛とエゴのぶつかり合いそのものではないか!?)と重なりあっていそうである。
* * *
実はゲーテとAqua Timezの結節点はもう一つ、核心的なものがある。
『夜の果て』の冒頭である。残念ながら私はまだ、ゲーテの元の詩は読んでいないが、調べたところ『温順なクセーニエン』第2集に収められている「……Ohne Hast, Aber ohne Rast,…… 」を翻訳したもののようだ。一般的な和訳としては「急がずに、だが休まずに」などがググってみるとよくヒットする。『夜の果て』の和文はこの歌詞以外にヒットしないから、おそらくVo. 太志のオリジナルなのだろう。(ちなみに、この『夜の果て』の詩は、先のゲーテ引用に引っ張られてかドイツ語詩や実存哲学の香りを感じる。彼は、ニーチェを読んでいると言ってたこともあったが、やはりその影響はあるのだろうか。それはそうと、この詩・曲は彼らのインディーズ時代からあったものだから、作詞作曲の太志は当時20代前半である。多分の若さを迸らせている曲とはいえ、とっくに当時の彼の年齢を過ぎてしまった私には恐れ多さを感じさせる。)
人は10代の頃に聴いた音楽を一生聴き続けるという。別に今はノスタルジーに浸るつもりはないが、それでも種々のフレーズ、メロディは折りに触れ、私に何某かの記憶の解凍、再発見の機会を与えるのであろう。
🦚以上🦚
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