Imasara

まだ日も昇らぬ明け方に、
何やもわからぬ感傷が
私にApple music のアプリを開かせる。
指の導きに従って再生された幾曲かのうちに
椎名林檎の『野薔薇』が混じる。

もちろん、詞はゲーテ、曲はシューベルトのものだ。
 しかし、そういえばドイツ語を読むようになってから聴いたことはなかったなと、布団を出てさっそく翻訳にとりかかる。

Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, 
Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

『Heidenröslein』Johann Wolfgang von Goethe

少年は見た、一輪の小さなばらが佇んでいるのを。
荒野に佇む小さなバラよ。
それはそれは若く美しかったので
近くで見ようと、少年は急いで駆け寄った。
目の前でしおらしくしているばらに心が満たされる。
ばらよ、ばらよ。
赤い小さなバラよ。
荒野に佇む赤いバラよ。


Knabe sprach: ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!
Röslein sprach: ich steche dich,
Dass du ewig denkst an mich,
Und ich will's nicht leiden.
Röslein, Röslein, 
Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

『Heidenröslein』Johann Wolfgang von Goethe

少年は言う。「僕は君を摘んでいこう。」
そしてばらは言う。「それなら私はこの棘であなたを刺すわ。
そうすればあなたはずっと私のことを想ってくれるし、
私は苦しまないで済むの。」
ばらよ、ばらよ。
赤い小さなバラよ。
荒野に佇む赤いバラを。

Und der wilde Knabe brach
's Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
Half ihm doch kein Weh und Ach,
Musst' es eben leiden.
Röslein, Röslein, 
Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

『Heidenröslein』Johann Wolfgang von Goethe

少年は乱暴にも折った、
荒野に佇む小さなバラを。
ばらは抵抗して彼を刺したが、
痛みだって嘆きだってまったく無駄なこと。
彼女はただ苦しまなくてはならなかった。
ばらよ、ばらよ。
赤い小さなばらよ。
荒野に佇む赤いバラは。


「佇む」という日本語は、だだっ広い空間にぽつんとある一輪の花の様子が、私の旧い記憶を刺激し、『百年の樹』の一本の木の情景と結び合わさって引き出されたものだ。

もうどれくらいの闇を 歩いてきたのだろう
うずくまった情熱を 何度も立ち上がらせ
紫の空の下 百年の樹は佇む
あなたも淋しかろうに 私は何人目の旅人ですか

『百年の樹』Aqua Timez

一度湧き出した記憶は、数珠つなぎのようにいくつかのフレーズを蘇らせる。『百年の樹』はAqua Timezのアルバム の一曲目なのだが、このアルバムの最後の曲『銀河鉄道の夜』にはこんなフレーズもある。

愛は痛みを欲しがるから
芽生えても育てるのは容易くない
咲かせるほど棘が刺すから
思いが強いほど 思い通りにいかない

『銀河鉄道の夜』Aqua Timez

愛の痛みと棘のアナロジーは『野薔薇』にもあるもので、第1連と第3連の描写がそれぞれ、アルバムの1曲目と最後の曲とぴったり重なりあっている。偶然であろうか、私はさらなる結び目を探さざるを得ない。

* * *

ピアノの音みたいに
こぼれ落ちていけたら良いのに
しがみつこうとする自分

いつからが朝で
いつまでが夜なんだろう

どこからが愛で
どこまでがエゴなんだろう

眠れない午前二時
眠ろうとしているうちに鳥が鳴きだす
無機質な天井を見上げた後
静かに一日を始める

気を抜くとあっけなく過ぎていく一日
傷付きたくないから
心を閉じたまま人の優しさを待ってる

「Carpe diem tour 2011」『メメント・モリ』Aqua Timez

このアルバムをフィーチャーしたライブ、そしてこのアルバムの中心曲『メメント・モリ』の前のポエトリーリーディングには、こんなフレーズもあったのだ。愛とエゴの境界に対する問いは、当時の私にとっても大変印象的であったことが思い出される。『野薔薇』の少年がこの問いに自覚的であったかどうかはさておき(おそらく、第3連で、「痛みも嘆きも」彼には通じなかったことから、無邪気さゆえに、その瞬間にはなんの問いも抱いていないことが想像される、そしてそれ故に彼の行動の悲劇性が浮かび上がってくるようには思えるが)、この詩全体を通底している想い(特に第2連の少年とばらのやり取りは、愛とエゴのぶつかり合いそのものではないか!?)と重なりあっていそうである。

* * *

実はゲーテとAqua Timezの結節点はもう一つ、核心的なものがある。

 「決して急がず されど弛まず」
ゲーテの言葉が疲れた足を励ます
英雄たちにすら翼はなかった
やはり彼らも人としてその足で歩いた

『夜の果て』Aqua Timez

『夜の果て』の冒頭である。残念ながら私はまだ、ゲーテの元の詩は読んでいないが、調べたところ『温順なクセーニエン』第2集に収められている「……Ohne Hast, Aber ohne Rast,…… 」を翻訳したもののようだ。一般的な和訳としては「急がずに、だが休まずに」などがググってみるとよくヒットする。『夜の果て』の和文はこの歌詞以外にヒットしないから、おそらくVo. 太志のオリジナルなのだろう。(ちなみに、この『夜の果て』の詩は、先のゲーテ引用に引っ張られてかドイツ語詩や実存哲学の香りを感じる。彼は、ニーチェを読んでいると言ってたこともあったが、やはりその影響はあるのだろうか。それはそうと、この詩・曲は彼らのインディーズ時代からあったものだから、作詞作曲の太志は当時20代前半である。多分の若さを迸らせている曲とはいえ、とっくに当時の彼の年齢を過ぎてしまった私には恐れ多さを感じさせる。)


人は10代の頃に聴いた音楽を一生聴き続けるという。別に今はノスタルジーに浸るつもりはないが、それでも種々のフレーズ、メロディは折りに触れ、私に何某かの記憶の解凍、再発見の機会を与えるのであろう。

🦚以上🦚

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