MEMO_『差異と反復』

 哲学、文学、精神分析などの人文学にとどまらず、数学、物理学、生物学などの分野からも種々のモチーフを持ち込む。そして、私を混迷に陥れるのが、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』という書物である。

 河出文庫で2巻。ご覧の呟きのとおり既に終章に入るが一向に話が見えてこない。あまりにも癪なので、もう一度頭から読み直すことにする。本書に限らず、咀嚼できず、消化不良の感が残る本は多々ある。普段なら、そういうものは、いったん放置し「読んだ記憶」に圧縮する。そしてその記憶が、また別の本なり経験をきっかけに突然蘇ってくる瞬間、いわば「発酵」の瞬間を待つのだが、どういうわけか今回はそうはさせないという思いがある。つまり発酵前の生地づくりをもう少し丁寧にやっておこうということなのである。
 この投稿は、『差異と反復』を再読するための「試金石」を集めたものである。今私が手元に集められるそれらは、決して十分な有用性を備えているとは言えないが、必ずしも無益というわけでもあるまい。読書人としての勘である。このような目的であるから、ここに記されるものは、インターネットに流通する記号の形態を持ちこそすれ、限りなく象徴的である。つまり全く個人の用に立てられうる覚え書き以上のなにものではない。(個々の材料同士の関係は極めてで希薄であることに加え、材料の仕入れ状況に応じて改訂の可能性は常に開かれている。)


1. ドゥルーズ哲学の相貌

現代思想の最前線とか前衛的領域とかの表現で、私はいわゆるポスト・モダンの思想界を考えているわけなのですが、それを代表する思想家たち、特にデリダとドルーズ=ガタリは著しく、 というより、根本的にアンチコスモス的です。そして彼らの哲学のこのアンチコスモス性は、現代という時代そのもののアンチコスモス的性格を如実に反映している。

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』p.226

あらゆるものを観念的 に、敵視的なレベルに引き下ろして眺めるドルーズとガタリにとって、自己同一的に固定された私のは何一つこの世界には実在しない。表面的にはいかにも中身の充実した固形的な物体のごとく見えるものも、実は密集する無数の意味粒子のざわめきにすぎないのであって、結局、存在世界全体が、ちょうど壊れたセトモノの粉々にくだけ散った大小様々、不規則な形の無数の破片の不定形な組み込み状態のようなものになってしまう。要するに、存在が、また原初のカオスに引き戻されてしまうのです。

ibid. p.228

ドゥルーズ的な反=冒険者のディスクールが目指すものは、読むことの模倣性をその擬似=冒険者的な環境から解放することである。それは「反復」なるものを「起源」の抑圧から自由にし、そこに模倣とは異なる創造的な運動を回復することだといい換えてもよい。

蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』p.98

 第5章にてカルノーの原理、エントロピーへの言及があることから、やはり大筋の方向性としての散逸を見逃すことはできない。キーターム(「反復」他)はのちの節で整理。

「『アンチ・オイデ ィブス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に完璧に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。」

松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス』p.11(孫引き)

 マルクス主義を自称するということは、マルクスの方法論をそれなりに参考にしてもよいということである。(しかし『差異と反復』に言及していないことからあくまでも参考程度に留めおく。)

2. 『差異と反復』の相貌

〔本書で論じられる主題は、ある時代の雰囲気の中にあって、その雰囲気のしるしはすべて、〕或る一般化した反ヘーゲル主義に数え入れることができる。

ドゥルーズ『差異と反復』(上)p.12
〔 〕内引用者

ヘーゲルは差異を対立、ひいては矛盾としてとらえるがゆえにそれを否定的なものとしてしか思考することができず、結局のところ差異を解消している。これが差異の肯定的把握を主張するドゥルーズの見解である。

松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス』p.75

 序章での宣言、第1章でのヘーゲルへの言及から本書は「ヘーゲル批判」としての性格を持つものであることがわかる。例えば、『精神現象学』の出発点「感覚的確信」では、個別的内容が廃棄される様子が語られる。

「いま」が指示される、としよう。この「いま」が、である。いま、それが指示されているときには、「いま」はすでに存在することをやめている。存在する「いま」指示された「いま」とはべつのものである。そこで私たちの見てとるところ、「いま」とは 「それが存在するとき、もはやすでに存在しないもの」にほかならない。[…]たしかに真であるものがあるとすれば、それは「いま」が存在したものである、ということである。しかしながら、存在した(gewesen)ものはじっさいにはいかなる実在的本質(Wesen)でもない。

ヘーゲル『精神現象学』(上)p.172−173

 「いまは昼である」、しかし時間が経てば「いまは夜である」。確かに常に「いま」はあるのだが、その内容は語られると同時に(こう言ってよければ)無効化する。「いま」であれ、「ここ」であれ、認識する主体としての〈私〉であれ、そして一般名詞で言い表されるような事物であっても、感覚的な「このもの」は無限集合としての個別的事物からなる「普遍」であって、しかしそれゆえに内容を捉えることができず、「真なるものを手に入れることがない」。唯一一回的な「いまは昼である」という認識事実を捨てねばならないことに対する批判が『差異と反復』で扱われているように思える。

 前節のとおりマルクス(=ヘーゲル批判者)との連関も薄ら見えているから、「マルクスによるヘーゲル批判の再現(本書の意味での「反復」?)」と捉えてみてはどうだろう。ではマルクスはどのように「ヘーゲル批判」を行うのか?

『トランスクリティーク――カントとマルクス』は、「マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読む」という仕事である。だが、それはこの二人を並べて比べることではない。彼らの間には、ヘーゲルという哲学者がいたのである。マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読むとは、むしろ、ヘーゲルをその前後の思想家から読むということだ。つまり、それはヘーゲル批判を新たに試みることを意味するのである。

柄谷行人『トランスクリティーク』p.507

 柄谷行人も「ヘーゲル批判」を「反復」する者であると同時に「マルクス批判の反復」も行っている。というわけで彼のヘーゲルあるいはマルクス読解も参考にする。

3. 『トランスクリティーク』

デカルトのコギト(我疑う)は、システムとシステム、あるいは、共同体と共同体の「間」において見いだされる。この「間」は、たんに「差異」としてあり、実体的にあるのではない。それは、けっしてポジティヴには語りえず、語られたとたんに見失われる、それ自体超越論的場所である。私は、これを批判的場所 (critical space)と名づけたい。

柄谷行人『トランスクリティーク』p.199

 「差異」を超越論的な「間」と捉えるのは第5章以降の強度論のヒントになるかもしれない。あるいは、「差異」を具体的な一例として捉えるにあたり「恐慌」もヒントになりそう。

確かに、恐慌は資本制経済に固有の病である、が、それは「解決」でもあるのだ。つまり資本制はそれによって問題を処理するのであって、それによって崩壊することはない。[…]マルクスにとって、恐慌はもはや資本制経済を崩壊させる何かではないし、その対症療法を講じなければならないものでもない。恐慌が重要なのは、平常時において隠されている資本制経済の「真実」を露呈するからである。こうして、マルクスは、恐慌が与える「強い視差」から資本制経済を見ようとしたのである。

柄谷行人『トランスクリティーク』p.231-232

 ここでは「差異」の代わりに「視差」という語がもちいられる。ここで興味深いのは、「恐慌」のカタストロフィックでありながら解決的な現象であるという性格が、『精神現象学』の序論において語られていた「絶望のみちすじ」の具体例のようにも読めることである。「差異」がヘーゲルに帰ってくる。

意識がじぶんの対象にそくして、みずからの知はこの対象に対応しないしだいを発見する場合には、対象そのものもまた維持されないはこびとなる。ことばをかえれば、吟味の尺度〔そのもの〕が変化することになるけれども、それは、尺度がそれについての尺度であったはずのものが、吟味に堪えない場合なのである。かくて吟味は、ひとり知の吟味であるばかりでなく、吟味の尺度の吟味ともなる。
このような弁証法的な運動を、意識はじぶん自身にそくして、みずからの知にかんしても、その対象をめぐっても遂行する。この運動が、そこから意識にとつであらたな真の対象が出現するかぎり、ほんらい経験と呼ばれるものにほかならない。

ヘーゲル『精神現象学』(上)p.149-150

4. キータームなど

4.1 反復

反復は一般性ではない。

『差異と反復』(上)p.20

「一般性は、どの項も他の項に置換しうる」関係のことを指しており、交換・置換可能な項の間にある関係とは、
①類似(質的)
②等価(量的)
である。反復とはこれらとは反対の置換不可能性であって、これが「特異性」と呼ばれる。

現象は必然的に、選択された諸ファクター間の一定の量的な連関に等しいものとして現われる。それゆえ、実験においては、問題になるのは、一般性のひとつのレヴェルを他のレヴェルに置換すること、つまり類似のレヴェルを等しさのレヴェルに置換することである。

『差異と反復』(上)p.25

このような一般性の間の移行の中にしか「反復」は現れえない。

自然法則に反復を期待するのは誤りである。「反復を可能にするはずの法則を見いだそうという夢は、道徳法則の側に移るわけである(p.27)」ため、カントの普遍立法は反復の可能性を与えていると言える。


「反復」の最終形は終章で『ツァラトゥストラ』を以下のように読む試みとして再現されているように思える。

わたしたちが知っているのは、『ツァラトゥストラ』は完成していないということ、ツァラトゥストラの死を、すなわち第三の時間、第三回としての死を含む続編が必要であるということ、これだけである。しかし、あるがままの『ツァラトゥストラ』における劇的な進展のゆえに、一連の問いと答えを立てることはすでに可能である。

『差異と反復』(下)p.334

 「第三」というのは、マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』から「反復」のプロタイプモデルを取り出し、応用したものであろう。

マルクスは、そのような喜劇的なあるいは珍妙な反復は、必然的に、進化的あるいは創造的な悲劇的反復の後に到来する、と考えていたように思われる(「歴史上のすべての大事件や大人物は、言わば二度反復する・・・・・最初は悲劇として、二度目は茶番として」)。

『差異と反復』(上)p.253

最初の時間は、必然的に、欠如によるものであり、そして言わば自己に対して閉じられたものである。第二の時間は、開かれたものであり、英雄の変身を証示している。しかし、もっとも本質的なもの、あるいはもっとも神秘的なものが、第三の時間にあり、この第三の時間は、第一と第二の時間に対して「意味される」ものという役割を演じる。

『差異と反復』(上)p.255

 余談ではあるが柄谷行人は、マルクスの同書を以下のように読み、議会のrepresentation(ルプレザンタシオン)の形態を認識論の問題へ焼き直す足掛かりにしている。

「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が、本来的に恣意的であるがゆえに、産業ブルジョアジーもその他の階級ももともとの「代表するもの」を見すてて、ボナパルトを選ぶということがありえたのである。一八四八年二月二四日に、諸党派は 「代表するもの」、つまり言説の場における差異としてあらわれる。ところが、三年後に、 ボナパルトがすべてを代表するものとして権力を握った。マルクスはこれを、ボナパルト自身の観念、政略、人格に帰すことを拒絶する。

柄谷行人『トランスクリティーク』p.215

4.2 力(ピュイサンス)

(ヘーゲルやニーチェも使うフレーズであるから見つけ次第、ここにまとめる。)

累乗:「一回目に、二回目、三回目を加算するというのではなく、第一回目を「n」乗するのだ。」(p.21)
「反復は、法則に反している」にもかかわらず「自然のなかに」見出されるのであればそれは、「力=累乗の名においてである」。

4.3 表象=再現前化(ルプレザンタシオン)

 表象は、いわゆるカント哲学でいうところの「認識」の前にある材料と私は理解しているが、この理解だけではどうも読みが深まらない。以下、たまたま併読していた『意志と表象〜』から。

われわれのすべての表象には、直観的と抽象的との二つの大きな区別がある。抽象的な表象は、種類がひとつあるだけで、これがすなわち概念である。

ショウペンハウエル『意志と表象としての世界』(1)p.14

『差異と反復』の訳注にはカントの定義も引かれているがちょうどこれと一致する内容である。ついでに「概念」なる語も理解したつもりのせいで読みが滑る。『精神現象学』では次のように述べられている。

自然的な意識は〔このみちゆきを辿ることで〕、みずからが知の概念にすぎないこと、いいかえれば実在的な知ではないしだいを示してゆく。[…]意識にとってはかえって、概念の実現であるものが、自己自身を喪失することととらえられるのである。

ヘーゲル『精神現象学』(上)p.137

つまり「概念」とは、意識の領域にあって、未だ「実在的な知」に至っていない=「実現」を待つもののことを指している。

概念とその対象との関係は、そのような二つのアスペクトのもとで、すなわち、そうした記憶とそうした自己意識のなかで実現されているようなものとして、表象=再現前化と呼ばれる。

『差異と反復』(上)p.47

4.4 規定

まずはヘーゲルの用法から。

「一」とは否定の契機であり、しかもその契機はそれじしん単純なしかたでじぶん自身へと関係し、他のものを排除することで否定的な契機となる。その契機をつうじて、「事物であること」が事物として規定されるのである。性質にそくして否定であるとは、規定されていることであり、それはただちに「存在すること」の直接的なありかたとひとつのものである。

ヘーゲル『精神現象学』(上)p.190

 知覚において「事物」を捉えるはたらきの関係性が「規定」であり、その事物が「一」として他の事物から区別されるような否定である。また次のようにもパラフレーズされる。

事物はむしろそれだけで単純に規定されているのであり、その規定されたありかたによって、事物の本質的な性格、それを他の事物から区別する性格がかたちづくられる。じっさいたしかに、ことなりが事物のうちに存在しているかぎり、 この差異は必然的に多様な性状の有する現実的な区別というかたちで、 事物のなかに存在しているのでなければならない。

ヘーゲル『精神現象学』(上)p.206

 ここでドゥルーズのキーフレーズ「差異」が登場。ヘーゲルの文脈との違いに注意しつつ読解すること。続いてドゥルーズ。

それぞれの規定〔述語〕は、概念において固定された規定であるかぎり、かつ無限個の諸事物に権利上適合する規定であるかぎり、一般的なものにとどまるのであって、つまりはひとつの類似を明示しているのである。

『差異と反復』(上)p.48

 ここで「規定」とは述語を指している。ただしこの文脈では、「規定」の意味そのものよりも「概念」と「類似」との連関に重きがある。(「概念」は本質的な「差異」を捉え得ない、という主張に向かうため。)

権利上、概念は、ひとつの存在する個別的な事物の概念であることが可能であり、その際、無限な内包をもつ〔のであろうか〕。〔そうだとすれば〕無限な内包は、外延=1と相関している。きわめて重要なことは、そうした概念の無限性は、現実態における無限性として定立されているのであって、潜在的な無限性、あるいはたんに無際限な無限性としては定立されていないということである。

『差異と反復』(上)p.47

主語たる現にあるこの個物は無限の規定を受け=無限個の述語を付せられてはじめて言い表しうる。したがって「無限な内包をもつ」。逆にその無限の述語に対応しうる主語=外延(=概念)はただ一つに定まる。ここで思い出されるのは基体説。

例として一匹の猫を考えてみる。私たちが知りたいのは、その猫がもっているあらゆる性質の背後 にあるものとはなにか、ということだ。まず、黒さは一つの性質であるから、黒さを除いてその猫のことを考えよう(ただし、猫の黒さを取り除くというのは、その猫の皮を剥ぐといったこととは異な る)。描の色を取り除くだけでなく、その形も取り去らなければならない。形も同様に一つの性質であるからだ。さらに、四つの脚をもつこと、いやな匂いがすること、柔毛で覆われていること、などについても同じである。それらをすべて取り去ってしまおう。だがそうすると、背後にある基体とは本当のところなんなのだろう、と疑問に思われてくるかもしれない。そのような基体は、目に見えないものでなければならないだろうし、いかなる長さ、幅、高さももたず、いかなる色も硬さももたないだろう。ある意味でそれは裸である。そしてこのことをふまえると、私たちは実際こう思い始めることになるかもしれない――そもそもここには、なにも残っていないのではないだろうか、と。

スティーヴン・マンフォード『哲学がわかる形而上学』(岩波書店)p.5-6

 ここで述べられているのは一つのパラドクスであるが、ドゥルーズがいうように「無限な内包」はそもそもこの問題を生じ得ないのではないか。現に、有限の場合の思考実験が紹介されるが、これは語=類についての話となっている。

4.x (項目候補)

  • 関係=比(ラポール)

  • 裸の物理的反復

  • 同一性

  • 差異

  • 異化=分化

  • 差異化=微分化

  • 問題

  • エレホンerewhon

  • 崩潰した自我

改訂履歴

R0 2024/4/14 初回投稿
R1 2024/4/20 1節、4節追記
R2 2024/4/27 4節追記

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