Yomanaide.

私は今、生まれ育った町から遠く離れたところにいる、物理的に。
カント先生は生前,ドイツの有名大学から教授招聘でお声がかかってもケーニヒスベルクを出なかったというのに,弟子たる私はとんでもないことをしでかしてしまっている。

こんな遠く離れた地にいるからか,普段なら書くことを避けていたようなことも書きたくなってしまう。
それは昨日のこと,2022年9月27日,おそらく遠く先の未来の人間にとっても目立つことになろう日のことだ。
政治と宗教の話はするなとよく言われるところではある。そしてこのnoteでもこんなことを書いてしまうと,考え方の違いゆえに,今まで読んでくれていた人が離れてしまうのではないか,そんなこともふと頭によぎる。
逆に私がこういうことを書くことによって,できればかかわりを避けたい人々に寄り憑かれてしまう可能性だってあるわけだ。
そして,何よりこの手の話題は言葉が強くなりがちである。どうしても攻撃的な物言いになり,敵を多く作ってしまう。
しかし,哲学者が政治を語ることは無害であるから許されるし,必要なことであるという旨のことを,カント先生は『永遠平和』で語っていたような気がする。(残念ながら,今手元にその本がないので引用してくることもできなければ,その真偽を確かめることもできないのだが……)年が暮れる頃にならないと,家には帰れないのだから,それまでこの話題を寝かしておくこともできかねよう。


さて本題。
私は昨日,twitterのトレンドに上がっているある単語を見て心底恐怖を感じた。「サイレントマジョリティ」。
一応ファーストインプレッションはツイートして残しておいたのだが,友人のポケモンが理由を尋ねるリプライをくれた。
私はそれに答えようとしたのだけれども,真摯に且つ誤解を除くように答えるにはどうしても140字という制限は厳しすぎた。
ただし先に断っておくと,当の友人が私の返答を曲解し,言い争いになる可能性は全く想定していないし,むしろ私のことをより理解してくれるであろうことは期待されるところであった。しかし,思想・姿勢にかかわるものだから私としてはどうしても第三者的に誤解のないように答える必要があった。デジタルタトゥー的に残されてしまうその答えが将来の私の弱点になってしまっては困る。このような全く利己的な動機,しかも不純な動機で,わざわざnoteの原稿を興し,答えを述べようとしている私をどうか許してください,ピカチューちゃん。

ではなぜ「サイレントマジョリティ」という単語に恐怖し,嫌悪の念を抱いたか。
端的な理由としては次の二つである。
①マジョリティという単語の使い方がおかしいということ。
②サイレントマジョリティという単語を使うことによって,真のサイレントマジョリティに対して意見形成を強いるであろうこと。
理由を二つに集約しておきながらツイートにできなかったのは,反論までケアするような回答にできなかったからである。


まず①について。
あの日,あの場所に集まった数万人を指して「これがマジョリティの声だ!」と主張する人間に対して,私は呆れのため息が止まらない。
確かに,反対デモを起こした人間,世論調査で反対と答えた人間の数よりはるかに多くの人があの場所に集まり,心からの純粋な労いや悲しみややるせなさの意を表したのだろう。しかしその事実から直ちに「マジョリティの声」を帰結させることはできない。論理的に明白である。
ここには二つの誤謬がある。
一つは先に述べた純粋な論理学的誤謬である。もう一つは政治学的誤謬である。

もし仮に真にマジョリティが存在しそこに集まった人々がその一部だったとして,それが決行の正当化となるのだろうか。
国の名を関する行事が国会を通さずに決行される,この異常性は民主主義を名乗る国家にとって決して容認されるものではない。正当な手続きを経ていないものがマジョリティの声としてあらわされるはずはないのである。あってはならないのである。
昨年の大河ドラマでのワンシーンが思い出される。
明治政府の役人たちが,国を代表してアメリカ他列強国の大使とやり取りをする場面である。
「これが我が国国民の声です!」「その国民とはだれのことですか?」
当時の明治政府は倒幕直後の即席役人集団だったため,選挙という手続きを経ずに作られたものだからこういうやり取りがあったと私は理解しているのだが,まさにこの列強国側の声は嫌味でもなんでもなく欠陥の事実の指摘である。

かくして今回の件についてマジョリティという概念を持ち出すことは全くの誤りであると言わざるを得ない。


②について。
これについては全く私の主観的な恐怖であることをはじめに断っておきたい。気狂いの妄想とでも言っていいだろう。
今回の件で「これがマジョリティの声だ」と主張することに対する恐怖は,それを信じる人が一定数いるであろうということだ。そう,真のサイレントマジョリティに対して,「あなたたちもこう考えているはずだ」と迫ろうとする圧力を持っているのである。
思い返してみれば,事件が起きたのは投票日の前々日だったろう。そして,幾人かの候補者が「弔い合戦」などと口走り,実際には同情でもって投票先を選んだという有権者のインタビューもテレビでは目にした。すべからく全員がそのように投票したわけではないだろうが,そういう人々がいたこともまた事実なのである。
意見を持たない人々は真のサイレントマジョリティとして,センセーショナルな材料だけである判断を下す。この大衆的熱狂の帰結は,フランス革命のギロチン祭りであり,ナチ党の政権獲得であり,アメリカ・イタリアでの右派政権の誕生である。
このようにして,ある雰囲気の中で今回のことが正しかったのだとする大衆の意見が形成されていくことは本当に恐怖でしかない。

ここで一つ反論。
「これがマジョリティの声だ」と主張することが真のサイレントマジョリティに対して一定の圧力を持つのであれば,「反対!」と声を上げることもまた同様に圧力を持った主張のではないだろうか?
ーー否。反対意見の表明そのものは,「私はかく思う」の範囲を超出しない。そしてその意見の提出先は,一人一人の政治家であり,その集合の政府や国会である。一方,サイレントマジョリティを持ち出すことは,意見を持たない人々の意思とは無関係に彼らに,意見を持った存在としての外観をまとわせるのである。「彼らもかく思う」というとき,「かく思わない私たち」も「彼ら」の内に含められてしまうのである。

かくして真のサイレントマジョリティに対する圧力を持つ言葉としての「サイレントマジョリティ」という言葉に私は恐怖するのである。


ここまで書けば,私はなんとか自身の答えを一定の真摯さと誤解を除くようなものとして認めることができる。
また,ここでは同時に私の政治思想も露呈している。仕方がない。カント先生に弟子入りしたいと思ったその瞬間から,この思想にたどり着くことは半ば必然的に決していたのだから。エンゲルスは確かにこう言ったのだ。「我々の思想のルーツにカント,ヘーゲルがいることを誇りに思う」と。別にかつての党生活者のように隠れながら生きていかなければならないような時代ではないのだから,思想・信条くらい自由に持たせていただこう。

🦚以上🦚

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