Konoyo ni Attehoshii Monogaaruyo

今夜ついに五輪は開会式を迎える。
別の世界線で私はその瞬間をひたすら首を長くして待っているに違いない。
https://youtu.be/zlm5sI5uY_c
敬愛する椎名林檎女史が演出を手掛けるというのだから。

彼女一人ではなく彼女と縁のあるクリエイターの名も数々挙がっていたし、何よりも2016年リオ五輪閉会式でのハングオーバーの演出で彼女らの仕事は必ずや日本人の心に、世界の隣人の心に感動をもたらすことを証明していたのである。
引継ぎの演出でこれだけのパフォーマンスを見せられたのだから、
いざ本番ではどんな興奮が待ち受けているのか、果たして呼吸は保っていられるのか…

しかし、もはやこの世界線においてそれは叶わぬ夢となってしまった。
何なら彼女が関わっていなくてよかったとさえ思えるような事態である。
2020年閏日のライブでテロリスト扱いされたその日から
平和の祭典も同時に意味を失っている。

こんな時代じゃあ 手間暇掛けようが
掛けなかろうが終いには一緒くた

彼女の作品ほど隅々にまで気を配られたものを私は知らない。
細部に神は宿ると言われるが、
その神々しさには常々心を撃たれてきた。
しかし、その委細なこだわりに気を留めない社会があるのもまた事実である。

思えば社会は暴力的である。

自らの生命維持のために労働力を駆り立て、消費活動を促す。
社会を構成する我々は、労働市場へ引っ張り出され、自らの市場価値を常に証明し続けることを強要される。
そして、そのちょうど真裏では誰かが作り上げた価値をむやみに消費する。

社会の中で循環する巨大なエネルギー構造は、その巨大さ故に質の差を飲み込んでしまう。
この微小量の破棄を暴力と言わずしてなんというべきか。

私は近頃思う、
それはもはや抗いきれないこの構造に対する一種の反発心のためなのか、
それとも、この暴力に自らの手を染めない方法を模索しようとする楽観のためなのか、
「ものの機微を感じ取る繊細さこそ持つべきである」と。

きっと違いの分かる人は居ます
そう信じて丁寧に拵えて居ましょう

繊細でいるということは、複雑な物事を複雑なまま受け取ることである。
しかしこの複雑性とは混沌ではない。
混沌にはあらゆるものが意味を打ち消し合うようにしか作用できないからである。
物事が複雑に絡み合い、しかしある秩序を形成する時、
そこには綜合的な意味が生じる。
インスタントな味に慣れ、速化していく世界に身を任せていたのでは
ついにこの意味をとりこぼしてしまう。
危うい全体主義も空虚な正義論などの暴力的社会の副作用もこうして生まれていくのであろう。
文化とは、教養とは、〈culture〉とは土を耕す〈cultivate〉ようにして生まれるものである。
そしてこの耕作の努力は、感受の網目を細かくしていくことに他ならない。
作り手が込めた願いは、この網で掬いあげるものである。

こうして考えてみれば、このような態度は時代に求められるべきもののように思えてくる。令和という時代は、梅や蘭の花が開くように、それぞれの個性が発揮される時代となるようにと想いが込められ名付けられたのではなかったか。花開いた個性はやがて誰かに想いを届ける。その受け取り手が機微の分かる人でありますようにというのは、私のエゴか。

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