Chiramise #2


本稿は2023年9月10日文学フリマ大阪の出品作品『「自己とは何か」をめぐる諸考察』からの抜粋です。本作について詳しくは以前の投稿をご参照ください。


 こうして我々は、自己意識の運動を経て精神つまりは社会的共同体を形成しうる自我に到達することができた。ヘーゲルに言わせれば、「人類の歴史はフランス革命において完結した」。つまり彼の哲学は、近代の哲学の一つの結論である。では、歴史が一度完結されたのち、世界では何が起きたのか?ーー産業革命である。組織化された生産体制のもとに資本を集中的に投下し、大量に生産しては大量に消費するという時代を生み出したのである。この消費時代は現代まで地続きで連なっているものである。私の素朴な直感として、この時代あるいは社会は物質的豊かさの増大に反比例して精神的豊かさを失っているように思えてならない。消費社会は、かつてマルクスが批判(1) し、『蟹工船』(2) で描かれたような惨めな労働を生み出したこともあったが、そのあり方は幾分マシになっている。しかし、「労働による自己疎外」の問題が完全に払拭されているかというと、そんなことはない。労働についても考えるべきことは山ほどあるが、ここではこれ以上深入りはしないことにする。
 ところで経済学は合理的意思決定を行う消費者はもはや存在しないものとして理論を構築しつつある。いわゆるナッジと呼ばれる反応的判断、バイアス、そのほか情報の制約などにより合理的とは言えない消費行動を消費主体がとっているとする行動経済学(3) の発達はその最たる例であろう。悲しいかな心理学の知見も含んだこの学問は、人間の動物的側面をよく描写しており、我々の消費欲を気づかないうちに掻き立てることに成功している。そのテクニックを埋め込んだ商品、広告そして販売員が我々を取り囲んで、我々の行動を気づかないうちに引き出しているのである。
 しかし、現代社会の皮肉なところはこの消費行動こそが自我を定立するための重要な活動となっているところだ。消費なくして「私」は存在しない。それは消費によって単に生命を繋いでいるということではなくて、消費行動が記号として意味を持ち、その記号が社会において「私」を形成しているということなのだ。
 前節の結論のとおり我々は、「私たち」としてこの社会を形作っている。これは私もあなたも彼も彼女も変わらない。人間は多数性を備えているのである。アレントは『人間の条件』において、多数性を活動的生活の条件の一つに据えた。

人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このように、人間は、他者性をもっているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性となる。したがって、人間の多数性とは、唯一存在の逆説的な多数性である。

(4)

 アレントはこの多数性の条件に基づき、人間の活動的生活のうち言論と行為によって、自らの正体を社会に暴露していくような「活動」を考えたのである。

その人が「なに」 ("what") であるかその人が示したり隠したりでき その人の特質、 天分、能力、欠陥の暴露とは対照的に、その人が「何者」 ("who")であるかというこのは、その人が語る言葉と行なう行為の方にすべて暗示されている。

(5)

 つまり私たちは社会の一員である以上、社会に対し自己の開示、表現を行っていかねばならない。そして、あらゆる活動が消費と結びついた現代においては消費そのものがこの役を大きく担うことになっているのである。

おそらく、享受とは自立的で合目的的な自己目的としての消費を定義するはずのものであろう。ところが、消費とは決してそんなものではないのだ。人びとは自分のために楽しむけれど、消費となると決して自分ひとりでというわけにはいかない(そうした見解は消費についてのあらゆるイデオロギー的論議によって巧妙に仕組まれた消費者の幻想である)。人びとはコード化された価値の生産と交換の普遍的システムに入りこみ、すべての消費者は知らないうちにこのシステムのなかで互いに巻きこみあっているからである。この意味で、 消費は、言語や未開人の親族体系と同じように意味作用の秩序なのである。

(6)

 今でこそスマートフォンの所有は多くの人に開かれたものとなっているが、登場の当初、それはスティーブ・ジョブズのカリスマ性に心酔する「私」を表現する一つの記号となっていた。

友人や初対面の人に、能力もDNAも経歴も含め、自分が上位1パーセントに入る人間であることを、さりげなく伝えるにはどうすればいいか。簡単な話だ。iPhoneを持てばいい。

(7)

 程度の差こそあれすべての消費はこのような「記号」の交換となっている。もはや我々は「それが欲しい」から買うのではなくて「それを持っている私」という意味の秩序へ自らを組み込んでいるのである。

そこでは個人が自分自身を映して見ることはなく、大量の記号化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序のなかへ吸いこまれてしまう。だからショーウィンドウは消費そのものの描く軌跡を映しだす場所であって、個人を映しだすどころか吸収して解体してしまう。消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。

(8)

 私はこうして形作られる自己など皮相極まりないと嘆きたいところなのだが、しかしそこから逃れようとすることもまた、この意味のゲームにおいてはまた自らを記号化し、その体系へと吸収させていくのである。


(1) マルクス,エンゲルス,『共産党宣言』(大内兵衛 向坂逸郎 訳),岩波文庫
(2) 小林多喜二,『蟹工船・党生活者』,新潮文庫
(3) ミシェル・バデリー,『行動経済学』(土方奈美 訳),早川書房
(4) ハンナ・アレント,『人間の条件』(志水速雄 訳),ちくま学芸文庫, p.287
(5) Ibid.,p.291-292
(6) ボードリヤール,『消費社会の神話と構造 (新装版)』(今村仁司 塚原史 訳),紀伊国屋書店,p.114
(7) スコット・ギャロウェイ,『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』(渡会 圭子 訳),東洋経済新報社,p.124
(8) ボードリヤール,『消費社会の神話と構造 (新装版)』(今村仁司 塚原史 訳)紀伊国屋書店,p.339

🦚以上🦚

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