Sepiafarbe

世界は突如として色を失った。
海底に潜り、殻の中から泡の言葉を紡ぎ出していれば、この嵐は過ぎ去るかもしれない。
しかし私は想像する。
アレントをしてその陳腐さで愕然とさせた一人の小人を。
殻から這い出し、潮風を吸う時に私がその小人になっている事を。
ある決断を迫られた時、然るべき判断を下せるよう、私は準備を整えておかねばならない……


本性的に人間は苦しみを避け快楽を求める。もっぱらこの意味でのみ歓びが善の表象となり、苦痛が悪の表象となりうる。かくて楽園と地獄の表象作用が生じる。
地獄についてのふたつの構想。通常の考え(慰めなき呵責)。わたしの考え(偽りの至福、楽園にいるという勘違い)。

私がいるのは鈍やかに輝く鍍金仕立ての楽園である。(ヴェイユの言葉が、鍍金を剥ぎ落としてこれを証明する。)まずはこの事実を自覚せねばならない。そして、ある命題を渋々承認する……「楽園に安住する限り、言葉は空疎である」と。故に私はある判断において、悪に加担することは決して承認しないが、一定の痛みは覚悟せねばならないということである。

雪崩が一度動き始めたなら、もはやその進行に何も影響を与えられないのを、あなたはご存知でしょう。どれだけ多くをそれが破壊し、どれだけ多くの人命を消滅させるかということは例え今はまだ人には分からなくてもそれは自然法則によってすでに決定されています。・・・あなたがたがしようとしていることの全ては、最もうまく行って破局が終わった後に有効に働くだけでしょう。ですから我々の目標をそこへ向けねばなりません。

プランクの助言とハイゼンベルクの選択。未来への確証もなく、多くの科学者が亡命していく中で、不信の世界ーー当時のドイツーーにとどまった彼の選択を、私は決して無視しないだろう。

私たちが今体験していることが21世紀においても「なお」可能なのか、という驚きは哲学的な驚きではない。

ベンヤミンの歴史哲学テーゼ(『歴史の概念について』)第八番の一節を意図的に述べ変えたものである。
「人類の歴史とは進歩の歴史である」
これは一見もっともらしい命題であるが、ベンヤミンはきっぱりとこれを否定する。進歩史上における〈例外状態〉に対する彼の批判は、全く前世紀の中古品とは思えない。今世紀を生きる我々にとっても十分機能する、否、機能させねばならないパラダイムなのである。

私にできることは何もない。何も。
しかし、歴史を注視する者として、少なくとも目は見開いておかなければならないのであろう。

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