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「書けない」ということについて
「書けない」ということは極めて緊迫した様相を纏って、私の主観世界を構成し始める。よく言うように、書くことは即ち考えることだからだ。したがって、書けないということは考えていないことを意味する。そしてデカルトの格言をもじって言えば、「我無し、我思わざるゆえに」。哲学の第一原理によって、書けない私は存在を失う。素朴に場としてある世界に、私はいない。これを我が身の実存の危機と言わずして何というか。
「
MEMO_『百年の孤独』
本日、2024年6月8日、RENSさんの『百年の孤独』読書会に参加してきました。
実は、『百年の孤独』が文庫化されるらしいとの噂は昨年末から立っており以下ツイートはそれに対する反応です(今月末いよいよ発売です)。こうして読む覚悟を決めていたところに、上の読書会の案内が舞い込み、文庫化を待たずして思い切って読んで参加することにした次第です。
ちなみに上のツイートの「文学講義の本」とは以下のもので
存在は世界を満たしている!
在る、ただ在る!
もはやここに新しく付け足すものなどなにもない!
そう、わたしは「余計者」!
MEMO_『差異と反復』
哲学、文学、精神分析などの人文学にとどまらず、数学、物理学、生物学などの分野からも種々のモチーフを持ち込む。そして、私を混迷に陥れるのが、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』という書物である。
河出文庫で2巻。ご覧の呟きのとおり既に終章に入るが一向に話が見えてこない。あまりにも癪なので、もう一度頭から読み直すことにする。本書に限らず、咀嚼できず、消化不良の感が残る本は多々ある。普段なら、そういう
20240401
コンステレーションを描いて
時間の根源に理念が散らばる
それらの特異点からは
発散し、渦巻き、同心円に広がる微光が
重なり合って白色光とマーブル模様の組織を生み出す
私とは
彼とは
それとは
光源から時間の彼岸を貫くその境も曖昧で
一時通過的な平面の一部である
散逸する
一切はあって、散逸する
しかし散逸とは更に複雑な模様を描き出す積分的綜合の運動なのだ
Oshaberi #3
ソクラテス やあ、ルートヴィヒ。
ウィトゲンシュタイン やあ、ソクラテス、どういう用件で?
ソクラテス 今日はね、君に紹介したい僕の友人を連れてきたんだ。
ウィトゲンシュタイン それは珍しいこった、君が連れてくるからには当然、大物なんだろうな。
ソクラテス それがね、なかなか拗らせた青年でね。なかなか面白いんだけど、やや僕には手に余るところがあってね。君と話してもらいたいんだよ。ほれ、お
実験的連続投稿 #2
(承前)
第一の問いに対する1つ目の事例として、私は数学を挙げよう。数学とは明証的にことがらを説明する極めて優れた手段である。その昔、プラトンが私設した学園の門前に「幾何学を知らぬもの、くぐるべからず」[1] と掲げ、哲学を修める者に数学的認識を前提として要求したことは有名な話である。あるいはまたペンローズ氏が主張することには、物質的世界は「プラトン的世界の小さな部分」である数学によって全体を
実験的連続投稿 #1
ここに私は一つの実験の開始を宣言する。それは連載紛いの投稿である。やはりある程度「書く」ということに対してプレッシャーを与えていなければ、考えが捗らない。やがて「読む」ことの無為性に自己が圧壊してしまいそうになるのである。とは言っても、この実験はほんの先ほど思いついたものに過ぎないし、途中で気が変わってやめてしまうかもしれない。それにこれから書こうとしていることは、私が今まで書いてきたことの統一
もっとみるChiramise #2
本稿は2023年9月10日文学フリマ大阪の出品作品『「自己とは何か」をめぐる諸考察』からの抜粋です。本作について詳しくは以前の投稿をご参照ください。
こうして我々は、自己意識の運動を経て精神つまりは社会的共同体を形成しうる自我に到達することができた。ヘーゲルに言わせれば、「人類の歴史はフランス革命において完結した」。つまり彼の哲学は、近代の哲学の一つの結論である。では、歴史が一度完結されたのち