報告書

東日本大震災のときと同様に,熊本地震の後にも「報告書」がたくさん出されている.こういった報告書は,現場へ行ってインタビューを行い,それに基づいて問題点を纏めるといった方法がとられる.

私も昔は政府関係のいろいろな委員会に呼ばれて,いろいろな報告書に携わった.どれも結果ありきで新しい提案が書けず,ましてや従来の方法の批判も書けず,総花的で差し障りない内容にするように役人から注文が入るので,嫌になって最近では全部断っている.中にはもの凄い予算を使うためだけのトンデモ報告書もあり,こんな内容の報告書に自分の名前を入れて出すことに嫌悪感を覚えたからだ.

企業との共同研究は,本当に解決したい実際問題を持っているところからしか依頼が来ないのでまだ良い.しかし,経営陣主導でプロジェクトが始まったときに,現場のインタビュー(実際問題の聞き取り)をするときには注意が必要だ.ほとんどが,「自分たちはうまくやっている」とか「現場では何の問題もない」といった差し障りのない内容しか話してくれないからだ.

これは現場で問題点を抱えていると会議室で発言すると,それが議事録に残って自分のボーナス査定に響いてきたり,自分の業務をシステムに乗っ取られると考えているからだ.本音を聞くには,長い時間をかけた信頼関係の構築と懇親会が不可欠なのである.ちなみに,ほとんどの研究者やコンサルタントは,このような本音でない情報をもとにモデルやシステムの作成をしてしまうので,現場で使えないものを作成してしまい,プロジェクトを路頭に迷わせてしまうのだ.

政府の報告書作成のためのインタビューでも同様の現象が起きていると考えられる.短時間の訪問で会議室で「地震のときはどうやっていましたか?」と聞いても「自分たちはちゃんとやっていた」という返事しか返ってこないだろう.実際に東日本大震災で大失敗をしたと考えられる某県の担当者と教授に聞いたときには,「うちはちゃんと動いていて何の問題もなかった」というお返事を頂いた.おそらく,失敗したと言うと自分が責任をとらされることを危惧しているからだと思うのだが,過去の失敗から学ぶことを止めてしまったら,我々の学問は進歩しないのだ.

過去の失敗に学び,従来の方式を否定し,綺麗事ではなく本当に将来の大震災のときに役に立つ報告書を書くには,勇気と忍耐と責任感が必要である.少なくとも現行方式では巧く動いていないという事実をもとに,マニュアルを改訂し,実効性のあるシステムを事前に準備しておかないことには,将来起こりうるより大規模な災害に対しては全くの無力である.

(追記)日露戦争後に参謀本部によって編纂された「明治三十七八年日露戦史」という全十巻の本がある.この本は戦争の論功行賞のために書かれたもので,司馬遼太郎氏によると,「時間的経過と算術的数量だけが書かれているだけ」であり,「価値論について毛ほども書かれていない」ため「明治後発行された最大の愚書」であると評されている.同じことが度重なる震災の後に出される報告書に対しても言えるだろう.時間と数量だけを詳細に調べて報告し,何の教訓も得られないまま,すべて今後の課題という名で先送りしているからだ.



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