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点滴ファイブ② 単語の節句 五月五日

単語の節句 五月五日


今日は特別な日なので、男の子のいる家庭では、点滴スタンドを競うように屋根より高く伸ばし、点滴パックに『鯉』という単語を入れて泳がせています。


プラスチックに段ボール、針金や紙粘土など材質の異なる『鯉』たちは、鮮やかな赤や青をまとっていて、そんな中、我が家の鯉は、墨で描いたような躍動感あふれる黒の『鯉』。

それは父さんの自信作で、真鯉の皮を剥いで作ったものなのです。


先週、父さんは重信川で釣った貫禄のある真鯉の皮を剥ぎ、得意顔でいいました。


「ええ真鯉が釣れたわい。こいつは、その辺のちゃらちゃらした緋鯉とは訳が違うんじゃ」


そんな父さん自慢の『鯉』を点滴しているのは、あたしの弟です。

新聞で作った兜をかぶり、縁側に寝そべって、家の中に入り込んだアリを指でつぶしつつ、耳の前側に生まれつきある小さな穴に点滴の針を刺しています。

かつて魚であった名残といわれる穴を持つ弟のことを、あたしは羨ましくてなりません。


そうした穴に『鯉』を点滴したならば、弟は本物の鯉になって空を舞い、仲間の魚がたくさんいる里へ飛んで帰ってしまうのではないかと思うのです。

そう、実のところ、あたしだって『鯉』になって大空を飛びたいのです。


けれども『鯉』を点滴できるのは、男の子だけ。


都会では最近、性別に関係なく『鯉』を点滴できるというのに、あたしの住む田舎では絶対に許されません。

女の子は黙って『恋』でもしときなさいと、けばけばしいショッキングピンクのフェルトで出来た『恋』という単語を、胸に点滴されています。


場所は縁側。隣には弟。


針の刺さった胸は近頃、少し膨らみはじめ、このままでは危うく弟に恋してしまいそうなので、点滴スタンドを押して茶の間に移動すると、ちょうど父さんが舌に点滴をしていて、パックの中では鮃(ひらめ)がヒレをレースのようにひらめかせて泳いでいました。


「どこいっとったん?」と父さんがいいました。


「縁側におったんよ」とこたえると、「鮃(ひらめ)を点滴するんやったら、ここより縁側のほうがええやろなあ」と腰を上げ、父さんは縁側へ行きました。


これより縁側は『鯉』と『鮃』が舞い踊る、まるで竜宮城のような艶(あで)やかな世界になっていくのでしょう、と思うあたしは、茶の間でまやかしの『恋』を点滴しながら、こんなの変、こんなの変だよと呟いて、ついには我慢できなくなり、台所にいるはずの母さんを呼びました。


けれど、いくら待っても母さんは返事をしてくれません。


家の中は奇妙なほどひっそりとしていて、あたしの声のみが響いています。黄昏時の濃い光が、あたしの顔面を照らしました。


「母さん。母さーん。どこにおるん?」


どこまでも静まり返った室内を、あたしの声が泳いでいき、故意に開いた窓の隙間より飛び出すと、大空に舞っていきました。


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