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花盛り八重子

 この春、四十二(しじゅうに)を迎えた八重子は、ここ数年をかけて土壌を一から入れ替えたのが功を奏したのか、かつてないほどの花盛り八重子。


 眼窩(がんか)の底に広がったゲル状の膜の上に、細かい根をもっしゃりと下ろし、ひらめき気分で開花した紫がかった空色のクロッカス。


八重子は空を見上げ、捉えているこの色は、空なのかそれともクロッカスの花なのかと、目を細めてみるものの、判断はつかず、いつの間にやら口角から泡を飛ばし、「味噌っかす!」と叫んでいた。


そのコトバは時空を飛び越え三十二年前の青空に落下して、五年二組の教室で意地悪な笑いを浮かべている太(ふと)志(し)君の頭を直撃した。

五年二組の花係である八重子は、数秒前に彼の口から自分に向かって放たれたコトバが、物体化して舞い戻り、彼の頭上に落ちてきたことに驚くも、薄茶色の湿った味噌のかすからうっすら湯気が立ちのぼっているのを眺めているうちに、抱えていた悲しみが和らいでいくのを感じた。


確かに太志君のやったことはいけないことではあった。


昨年の秋口に、八重子が学校の花壇に植えたクロッカスの球根が、春になりようやく花を咲かせた矢先、花壇に土足で踏み込み、花を愛でることもなしに、クロッカスを根こそぎ抜き取り投げ捨てた花壇荒らしのこの少年は、今、クラスメイトの目の前で天罰を受けており、普段、他人の目にばかり涙を送り込んでいたことを反省したのか、はじめて自分自身の目に涙を贈っていた。


「あなたにとっての喜びがわたしにとっての悲しみであったとしても、わたしはあなたを許します」

花係八重子は太志君に近づくと、ハンカチで彼の涙を拭いてあげた。


「ちーんしてごらん。そうそう上手。ちーん。ちーん」
十八になった八重子は、脇にティッシュ箱を抱え、鼻係八重子として園児たちの鼻を追いかけていた。


たけのこ保育園の山菜組の園児たちは、まだ自分で鼻をかむことができない子ばかりで、八重子が促してやらないと、鼻汁を口の中へと垂れ流しにして微かな塩味を楽しみ、再びカラダの中にそれを巡らせて咳き込んでしまうため、鼻係八重子は年中大忙しだった。


原因不明の疫病が繰り返し蔓延していることもあり、園児の親らは、子供を清潔に保つことに執着し、子供の体調不良の兆しを他者に気付かれるのを極端に恐れていた。


『常に元気。常に清潔。きれいきれいうちの子の鼻』


鼻をかさかさにしない、潤いティッシュの宣伝文句が八重子の脳内に流れ、彼女が抱えるティッシュは、もちろんその潤い高級ティッシュではあるけれど、どれほど潤いがあったとしても、幼い子供たちの肌はとても敏感なので、拭き過ぎると赤くなったり、かさついたりするため注意が必要だった。


特にここ数日、まことちゃんの鼻からは絶え間なく汁が流れ出ているため、彼の鼻は赤みを帯び、かさついていた。八重子はまことちゃんの母親から教わったことを、実行するべきか思い悩んでいた。


彼女は、息子の鼻に口をつけ鼻汁を吸い出しながら、事もなげにこういったのだった。


「先生、こうやると鼻は赤くならないし、潤いを保てるんですよ。先生も鼻係であるならば、これくらいやらないと。以前、鼻係だった聖子先生はいつもやってくれていましたよ」


 聖子先生の後任である八重子は、彼女に会ったことがなかったし、彼女が退職した理由も知らなかった。他の先生に尋ねてみても誰も教えてはくれなかった。


「しぇんしぇい、おはな~」


 牛乳を飲んでいるまことちゃんが鼻からでている白みがかった汁を、指でデローンと掬いあげつつ、無邪気な笑顔で八重子に決断を迫ってきた。


 八重子は腹を括った。ソフトクリームを口にする時の、あの最初の一口目、丸まりのあるあの繊細な先っぽを優しく包み込むように、まことちゃんの小さな鼻を唇で挟んだ。


彼の鼻汁を吸い上げてみると、それは予想通り塩の味がしたのと同時に、意外にも微かな新緑の香が鼻孔を突き、「しぇんしぇい、おはな~。おひげ~。おはな~。おひげ~。これはやっぱり、はなひげちょうじゃ~。」と手を叩くまことちゃんの声に反応するかのように、鼻の奥がむずむずしはじめた八重子がそばにあった鏡を見ると、そこには先っぽをくるりと巻いたシダ植物が、鼻(はな)穴(あな)より伸びているのだった。


はて、これはゼンマイかな、蕨かな、と八重子が考えているうちに、園長であるこごみ先生が錆びついた音を響かせて近づいてきたかと思うと、煙をあげてうつ伏せに倒れ込んだ。


驚いた八重子は吸い上げたばかりのまことちゃんの鼻汁を、思わずとろんと飲み込んでしまい、その喉越しがわらび餅にそっくりだったので、やはりこの鼻から伸びている植物は蕨であるのだと確信し、あく抜きのための灰を探しているうちに、こごみ先生の毛髪が燃えはじめ、縮れ、灰となったので、それをありがたく頂戴した。


灰のお礼に、八重子がゼンマイ仕掛けのこごみ先生の背中に付いたゼンマイを巻いてやると、先生は立ち上がり、トコトコと不器用に手足を動かして園の門から出ていった。


灰を握りしめ、鼻係を放棄して、こっそりこごみ先生のあとをつけていた八重子が辿り着いたのは、雑居ビルの地下にある耳かき専門店『里山』であった。

『里山』の草色の暖簾をくぐろうかと考えあぐねていると、暖簾の間からひょいとこごみ先生が顔を覗かせ、八重子の鼻から伸びている蕨を引き抜き「鼻の時代はもう終わり。これからの時代は耳ですよ」というので、そろそろ鼻係から卒業したいなと密かに考えていた八重子は、手にしていた灰を自らの頭上に蒔き、時代の流れにどんぶらこと乗った。


八重子の新しい仕事場である『里山』の個室を支える木の壁には、あちらこちらに立体型の耳のオブジェが飾られていて、いつも誰かに聞き耳を立てられている気がするので、その耳を齧ってみたならば、なるほどそれは木耳(きくらげ)だった。


「ご指名ありがとうございます。経験なくても知識は豊富、ミミリンこと耳年増小耳でーす」


八重子は自分の右耳に片手を当てて、お決まりのフレーズをつらつらと口にすると、常連客である吉野さんは「わっしょいわっしょいわっしょいゴンドラ。わっしょいわっしょいわっしょいミミリン」とペンライトを振ってそれに応えた後、おもむろに八重子の膝枕で目を閉じた。


ティッシュを一枚、床に広げ、吉野さんの耳の穴にペンライトを当てて、中を覗き込んだ八重子は、うほう!と叫び声をあげ、吉野さんの心遣いに感謝した。彼の耳(みみ)穴(あな)で手付かずのまま半年ばかり寝かされたミミッカスは、穴を埋め尽くし、最初の一掻きを待ちわびていた。


「発掘開始!」
満を持して差し込まれた耳かきの先がカスに触れた。

水分少なめのはしゃいだそれは、八重子の好物だった。

ここのところ、湿っぽいカスばかりに接していたせいか、八重子のココロは高鳴り、唾を飲み込み、ミミッカスと向き合った。

耳かきの小さな匙に乗り、黄金のごとく颯爽と穴から現れるミミッカスが、ティッシュの上に着々と溜まっていった。


見える部分のカスを取り除いた後、穴の奥まった部分に隠れている塊に、耳かきの先がコツンと触れると、八重子は金脈を見つけ出した鉱夫のように興奮し、「かくれんぼしたって駄目なのよ。全部見つけ出してやるんだから」と呟いた。


やがて、これ以上、カスが隠れていないと判断した八重子は、仕上げに耳かきの先に付いている白いポンポンを耳穴に入れクルクルし、最後にふうと息を吹き込み、「発掘終了!」と声を上げた。


目を開けた吉野さんに、ティッシュの上に広がった発掘品を見せた。

彼は満足気に頷いた。八重子はミミッカスがこぼれないよう、それをお守り袋の中に入っている御札(おふだ)のごとく丁寧に折り畳み、吉野さんに手渡した。彼はそれを大事そうに上着の右ポケットにしまい、左のポケットから黄色い花が咲き誇るミモザの枝を取り出して、八重子の両耳に優しく挿した。

するとみるみるうちに八重子の耳が伸びはじめ兎耳となったので、それならばと耳かきをお尻に挟んでみると、先っぽの白いポンポンが膨らんでウサギの尻尾(しりお)に変化して、八重子はウサギ跳びで『里山』の外へと跳ねていった。


八重子は白いウサギだった。

何かに導かれるように通りを跳び続けていると、白い教会が見えてきた。

教会の扉は、何人にも開かれていたため八重子は跳び込み、そのまま懺悔室へ向かった。


懺悔室にはすでに罪を告白しようと一人の信者が座っていたが、片側で耳を傾けているはずの神父はおらず、八重子はそこに置かれた椅子に座ると扉を閉めた。


こうしてこの懺悔室が、八重子の新しい仕事場となった。


訪問者があれば、八重子は時間を問わず彼らのコトバに耳を傾け、彼らの罪に羽を付けて天に飛ばす手助けをした。

八重子の手にかかると、小さな罪も大きな罪も一様に清々しく飛んでいってしまうので、肩の荷を軽くした信者たちから噂を聞いた罪人(つみびと)が、絶え間なく懺悔室を訪ねてくるようになった。


ある晴れた午後のことだった。

この日、懺悔室を訪れた男性は、しばしの無言の時間を経て、告白をはじめた。


「毛も生えそろっていない肌色の、ウサギの子が眠る飼育小屋の扉に、鍵をかけ忘れたのはわたしです。

夜間に扉から侵入した野犬が、ウサギの子を噛み殺し、翌日藁の上で血まみれになって散らばっているウサギの子を目にした小学五年生だったわたしは、自分の過ちを、同じ飼育係の正人君のせいにして逃げ出した挙句、そんな自分に嫌気がさし、花壇に咲く青い花を根こそぎ抜いて、台無しにしました。

あの青い花が、なんという名であったのかは分かりません。

さらに、わたしは花係の八重子ちゃんを味噌っかすとなじり、わたしの涙を優しく拭いてくれた彼女の顔に唾を吐きかけたのです。

その頃のわたしは正真正銘の味噌っかすでした。あの日からわたしはずっと謝りたいと思っていた。

死んだウサギの子と飼育係の正人君に、そして花係の八重子ちゃんに。それが叶わないなら、わたしは死んでも構いません。ここにナイフがあります。神父さま、お願いです。これでわたしを殺してください」


「それではナイフをお借りします」


 二人の間に引かれたカーテンの下からナイフが手渡された。磨き込まれたナイフだった。八重子はナイフを手にすると立ち上がり、太志君の前に姿を現した。


巨大な白ウサギを目の前に恐れおののく彼の前で、八重子は白い毛がびっしり生えた皮をナイフで剥ぎ始めた。

刃先が皮に触れる度に鮮血がほとばしった。白い毛皮が赤に染まった。

八重子のカラダは熟した赤い果実であり、それは嚙み殺された産まれ立てのウサギの子だった。

ずるむけ八重子は、剥いだばかりの血だらけの毛皮を、太志君のカラダに被せたならば、彼の皮はみるみるウサギの皮と同化して、大志君は巨大な赤ウサギとなり、懺悔室から跳び出していった。


ずるむけ八重子は赤ウサギの後を追った。

赤い二つの塊を目にした人々は、よからぬものに出くわした思い、塩を投げつけた。

その塩は赤ウサギにとっては、ただの塩であったけれど、八重子には毒となった。

塩はずるむけのカラダに染み込み、八重子の顔は苦痛に歪んだ。

通り掛かった正しいココロの持ち主が、そんな八重子を見て川のありかを教えてくれたので、八重子は赤ウサギを追うのを止め、川に向かって走った。

速度を速めるほどに、塩を浴びた八重子のカラダに風が当たり痛みが増したが、川の真水を求めて懸命に走った。


やがて滔々と流れる川が現れ、八重子はその水に飛び込んだ。

川の真水はカラダに付いた塩を流し、血を流し、肌を蘇生させた。

もう痛みはどこにもなかった。

裸の八重子は、川べりに広がる丸まりのある石の上に仰向けに寝転がった。

目をつぶり、川の場所を教えてくれたココロ正しき人を思い感謝するとともに、喉の奥からもぞもぞと這い上がってくる息吹を感じた。

口を半開きにして八重子は待った。

息吹は口中を抜け、口先でぽわんと褐色の円筒状の穂をつけた。それは蒲(がま)の穂だった。

やがてその穂は内側から弾け、無数の綿毛をこの世に放ち、彼らの子孫たちを乗せせた旅をはじめた。


それから幾年(いくとせ)も経ち、八重子はこの春、四十二(しじゅうに)となり、これまで八重子のカラダを土壌に転生(てんせい)を繰り返してきた花々が、一斉に見ごろを迎えていた。

いや、実のところ、それらは花でなく、草であり靴であり、はたまた道端に捨てられた屑であったかもしれない。

なんであっても構わない。カラダから芽吹いてくるものはすべて花であるのだと、八重子は一つ一つの花に向かって、その名を呼んでいきました。 

   (完)

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