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点滴ファイブ① ももの節句 三月三日

ももの節句 三月三日



「桜は、老体によう効くわい」


 爺さんの点滴パックには、桜餅が入っていて、それはもも色のもち米をまぶしたもので、もともとはアンコを優しく包んだもち米に、さらに塩漬けした桜の葉を巻きつけた手の平サイズの愛らしい菓子であったのに、一緒に入れた精製水の中で、今ではすっかりふやけてしまい、中のアンコがうんにょりと飛び出しています。


「甘いだけじゃのうて、ちょっと塩気があるんが、ええんやなあ。桜餅は」
爺さんがそういいました。


 ふやけほどけた桜餅は、チューブの中を流動し、時折つっかえながらも爺さんの脳天に突き刺した針から、老いぼれたカラダに春を知らせているようです。


この時期、いつも点滴をしている六畳の茶の間は、爺さんがあたしの初節句に買ってくれた七段飾りの雛人形に占領されているため、ちゃぶ台を部屋の隅に移動して、あたしたちは点滴をします。


ちゃぶ台の上には、ももの花と、なの花が飾られ、この二種の花の組み合わせは淡く乙女心をくすぐるので、ひゃははひゃははとお尻を振って笑いつつ、そこに刺した針よりのびるチューブを辿ってみたならば、スタンドに吊るされた点滴パックの中で、ハマグリも『ワタクシハ、ヤマノクリデナク、ハマノクリ』と口を開けて笑っているのでした。


ふと、雛壇を見遣ると、お雛様らはみな白けた顔で上品なおちょぼ口をフジツボみたいにさらにすぼめて、ハマグリの大口(おおぐち)を見ています。

その中で一体だけ首のないものがいて、それはおかっぱ頭をした五人囃子の大鼓(おおつづみ)を持つ人形で、はて、首はどこへ消えたのか?と辺りを見回していると、台所からガラガラと点滴スタンドを押しながら母さんがやってきました。

母さんはいつも家族の点滴の用意をしてから、最後に自分の点滴を支度します。母さんはいつも自分のことは後回しなのです。


えらいなあ、母さん。母さんの点滴は世界一!と拍手をおくろうとした瞬間、あたしは人形の首を見つけました。

それは母さんの点滴パックの中にあり、おかっぱの白いお顔が液体の中でゆらゆらと漂っているのでした。

そこからのびるチューブは母さんの上唇に繋がっています。母さんがあたしの隣に座りました。母さんの上下の唇が微かに開く度に、ぷっぷっぷっと泡が弾けるような音が漏れ出ます。


「母さん、魚みたいやね」


あたしがそういうと、母さんは突然「ヤアー」「ハアー」と掛け声のようなものを大声で発し、それなのに、相変わらず唇はわずかしか開いていないのでした。

上方から別の掛け声が聞こえてきたので、見上げてみると、点滴パックの中の人形の唇が、母さんの唇の動きに連動していました。

そのうち母さんが人形の動きに合わせているのか、それとも人形が母さんの動きに合わせているのかがよく分からなくなり、あたしは思わず母さんの上唇から点滴の針を抜いてしまいました。

針からはポツチンポツンと滴が垂れ、畳の上に落ちる度に、きゅーんきゅんと鳴きました。


「あんた、なんしよん。お行儀が悪い。点滴中に針を抜いたらいかんやろ」


いつもの母さんの声がして、母さんが人形に乗っ取られていないのが分かり、あたしは安心すると同時に、母さんが人形からどんなエキスをもらっていたのか尋ねてみたくなりました。

けれどもそうした質問は、親子であってもするべきではありません。

爺さんのように、塩気がどうのこうのと自分自身で感想を口にするのはいいのですが、他人にそれを尋ねるのは、人の点滴の針を抜く以上にお行儀の悪いことなのです。

だからあたしは開こうとする唇を制し、すねた貝のごとく口を閉じました。


窓からは陽光が射し込み、各々の点滴パックを照らしています。

母さんが再び、針を唇に刺しました。今度は下唇に刺していて、一滴の幸せもこぼれ落ちないようにと下顎を前に出し、気持ちよさそうに目を閉じています。

そんな母さんを見ていると、潮(うしお)の滴をお尻いっぱいに受けたあたしも満ち満ちて、砂の中で口を閉じ、とっぷりと春の眠りにつきたいと思いつつ、畳の上で猫の背伸ばしの恰好をして、点滴したままのお尻を突き出し、そっと瞼を閉じました。


点滴しながら眠ることは、決してお行儀の悪いことではないのです。


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