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教育で結果を出すという事①

今、大学院で特別支援教育について学んでいる。小学校教師になると、特別支援学校の免許がなくても特別支援学級の担任になることができる。たぶん。

ということは専門的に学んでいなくてもなれるわけや。

だって、本来特別支援学校教諭免許というものがあるのだから。

記憶が確かなら、介護等体験実習(の1週間?2週間やったか忘れた)と特別支援学校での実習(2日間)の単位をゲットすれば、障害を持つ者への指導はできるという大義名分を得た形になる。

教育界に入る人に、自分はイケてる!人を指導するに値する人間なんだ~という傲慢な人もいれば、誰かのためになりたい、子どもと関わりたい~など素敵な思いを抱いて教師になるもいる。動機はどうあれ、若いときは勢いがあるし、なんのリスクも考えず突っ走ることができる。(今の若い人たちはそんな無茶はしないけど。)

そして、知識はあるけど、実践スキルと経験に乏しい人間が多くの子どもに教育を施すことができるのかといえば、

結構できる。情熱さえあればたいていやっていける。8割、9割くらいの子は教師の指示した通り、勉強や生活をしていくことができる。

問題は、そうでない1、2割の子の心を満たし、いかに伸ばしていくことができるかが、本物の教師か、そうでないかの分け目だと勝手に思っている。

特別支援教育はそういった1、2割の子とどう関わるのかということについて専門性がある。その専門性がないと、

子どもの心は荒れ、学級が荒れる。そして、崩壊へ。

それは、教師が一番恐れる事であります。

ぶっちゃけ、体罰がまかり通ってた時代は、恐怖で言うことを聞かせることもできていたが、教育上なんの効果もない。未だに一部の一般人は体罰神話を崇拝しているが。

というよりも、無理やりやらせたり、服従させたりすることに価値はない。

(余談ですが、子どもが好きだから~といって、教育現場に入ってくる人は自分の話を全く聞かない、クラスをめちゃくちゃにする、クラスメイトに暴言や危害を加える、いじめる、学校の物を破壊する、反抗的で挑戦的である、などの特性を持った子のことも好きになれるのだろうかなぁと思う。実際、そんな子を疎ましく思う教師は多い。子どもにちやほやされたい、教えたい、指導したいといった上から目線的で、自分が子どもより上で優越感に浸りたい的な発想で教師になると、現場でやっていくのは難しい。しらんけど。)


自分にはその1、2割ほどいる、学習や生活、行動上課題のある子、人間関係をうまく築くことができない子、家庭環境しんどい子、国籍の違う子などいろいろな困り感を抱える子どもたちにうまく対応できていなかった。

いや、対応は本気100%でしていたが、感情と経験則まかせで、本当に子どもの心に寄り添った(本質をとらえた)関わりができていたかと言えば...。

自信がありません。

というわけで、知識と理論をがっぽしゲットするために大学院に学びに来たのである。

その昔、誰かが言っていた言葉があります。

『実践なき理論は空虚であり、理論なき実践は無謀である』と。


教師とは何か、教育とは何かということを悶々と考えていたところに、教師という仕事のすばらしさを感じさせてくれた人が、院生室の隣の席に座っていた先輩(業界用語でいうところのパイセンにあたる)なのである。


後半へ続く~(ちびまる子ちゃんのナレーション風に)

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