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一人暮らしが寂しかったことが懐かしい

1Kの一間を寝室にし、キッチンに本棚と机を置いていたあのころ。三鷹駅から徒歩15分、大家さんの家と隣接している4つしか部屋のないアパートの2階に住んでいたころ。たまの休みに大音量で椎名林檎とブルーハーツをかけ、玄関のドアを開けて詩集を読み、真四角の浴槽につかり、自転車で吉祥寺に買い物へ行く。家の目の前はどこかの会社の工場で、出勤のときにサラリーマンとすれ違う。びゅーびゅー風の吹くホームで一本電車をやりすごし、東西線乗り入れの総武線に乗る。茅場町についたらまた15分歩いて、会社に着く。

ひとりだった。圧倒的にひとりだった。大学生のころは、寂しさを紛らわすように夜な夜な麻雀したり、酒を飲んだり、カラオケ行ったり、夜桜見たり、そんなことも楽しかったけれど、寂しさを埋めるために誰かと居るむなしさもあった。東京では、それだけはしないと固く決めていたから、線路の上を歩く陸橋で花火が見えても、夕日が綺麗でも、誰もそこに呼んだりしないで、ひとりで眺めていた。

天気がいいときは、その陸橋から富士山が見えることがあった。見るたびに、富士山だ!と思った。東京の人には、当たり前だよ的な顔をされたけれど、どこにいても富士山が見えるたびに、富士山だ!と思っていた。

あるとき、ずいぶん年上の女性と夕飯を食べたことがあった。何を食べたか覚えていないけれど、3階くらいにあるガラス張りの店で、外にひかる電気が綺麗だった。

「うらやましいわ」

とその女性は言った。よくわからなかった。

「好きなことに、好きなだけ時間を使えて。今の特権よ、楽しんでね」

と彼女は続けた。やっぱりよくわからなかった。

結構な頻度で、寂しい、と思って青い浴槽に浸かっていたから、誰かと住んでいれば、夕飯も一緒、話し相手もいる、綺麗な夕日も一緒に見られる。くだらないテレビにもつっこみを入れられる。ひとりでテレビを見るのはつまんなくて、一人暮らしをするようになってから、部屋からテレビは撤去した。

その女性は、綺麗な紺のワンピースを着ていて、所作が綺麗で、お酒に詳しくて、好きな男と結婚して、かわいい盛りの息子がいる。仕事も好きだ、と話していたし、たいして接点のないわたしに良いご飯を驕れるくらいには自由になるお金もある。わりとうらやましかった。その人が「うらやましい」とわたしに言う意味はまったくわからなかった。

私自身も結婚して、彼女の言う意味がわかるようになった。夫の百瀬のことは好きだ。一緒に住むようになって4年が経つけれど、相変わらず彼はキュートでクレバーだし、一緒にどうでもいい話をしたり、真面目にお店のことを考えたり、ドラマを見ながらあーだこーだ言ったりするのも、楽しい。でも、だ。どれだけ好きな相手でも、相手のペースと私のペースは違う。食べたいご飯も、お風呂のタイミングも、起きている時間も、働くペースも。べつにすべてどちらかに合わせる必要なんてもちろんないのだけれど、本意か不本意かにかかわらず、すこしずつ時間や、やることが引っ張られていく。それは私だけじゃなくて、彼も同じこと。それが誰かと一緒に住む、ということなんだろうと思う。

あのときみたいな、ぽっかり空いたひとりの時間はずいぶんと減った。彼女の言うように、好きなだけ何をしてても良い時間。あれは、本当に贅沢というものだったのだな、と懐かしく思い出す。

今、その生活を再びするつもりはないし、今は今で子どもを育てる家庭や介護する人がいるお家と比べると、ずいぶん贅沢なんだな、と思う。

贅沢な時間を、使い潰すように過ごしているけれど、それもまたたぶん良くて、それは健康だからできる不摂生に似ている。きっと一緒に住む人が増えたり、減ったりしたときに、今の生活を懐かしく思い返すのだろうな。

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