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財閥コレクションについて

益田鈍翁からみえる財閥と美術品蒐集の意義  

  明治以降、華族は衰退し実業家たちが美術品蒐集の主導となっていた。その中でも、旧三井物産(以下三井物産と記す)初代社長・益田孝は茶人として「鈍翁」の号をもち、蒐集家としても名高い。茶器はもちろんのこと、書や絵画、歴史的文物など数多のコレクションを有し、どれも国宝級の貴重なものである(1)。彼ら財界人たちによる美術品蒐集や、財界数奇者による茶の湯再興の意義とは何であったのか。益田孝という人物を通じて、それら本質的意図を探る。
  益田孝は1848年に佐渡奉行益田孝義の長男として生まれる。アメリカ公使館で英語を学び、15歳で幕府の遣欧使節団に父の従者として随行した。維新後、貿易商として実務していたが、井上馨の勧めで1872年大蔵省に出仕する。一年後に辞職し、後に三井物産の前身となる先収会社を立ち上げた。1877年、三井財閥に招請され三井物産の総轄となる(2)。
  1896年に益田は空海の書を入手したことを機に「大師会(3)」をはじめる。この茶会は国宝級の美術品が飾られ、名物茶道具を使う茶、豪華な懐石などもふるまわれ、財界名士たちの社交場となった(4)。書籍『茶の湯の歴史』には「堺の商人であった初期の茶人に近く、(中略)欧米のティーパーティーをまねて、明治二十八年に東京で大師会と名づけた大茶会をはじめている」(5)と記されており、また、豪華な茶会に批判があったことについて述べられている。だが「利休以来の茶人」といわれた益田が茶の精神や美学を理解していないとは考えがたい。真に欧米ティーパーティーの模倣であれば欧風のティーセットや装飾品を用いたであろう。つまり、グローバルな視点をもつ益田が茶の湯を社交場とし、日本屈指の美術品で装飾したことに重要な意図があったと考えるのが妥当である。この大茶会は、財界名士たちの鑑賞眼を養い、茶の湯を通して日本の文化や美意識を再編集させ、保護することに繋がった。財界人らが私財を投じ、建てられた文化財保護施設「高野山霊宝館」(6)の事象は、当時の実業家たちの美術品蒐集が単純に遊興ではなかったことの信証である。
  このように、明治期の実業家たちは美術品蒐集を国益を守る大義のためと自らの美意識のために行ってきた。茶器ではないが益田孝が一部所有していた『源氏物語絵巻』を最終的に手にした東急の五島慶太(7)などはまさに益田と同じくして茶の湯に傾倒し、日本の社会・文化の発展に尽力した一人である。
  日本の特徴的価値感として、「次第」というものがある。美術品や文物と誰がどのように関わり、何ゆえそこにあるのか、物の「次第」は美術品にとって重要な付加価値となる(8)。財界数奇者たちは先見の目をもって、「次第」を繋ぐ布石として大茶会を催したのである。益田孝は美術品の本質的な価値を認識する者に継承されていくことを望み、日本の文化や美意識そのものの保護、継承に努めた功労者の一人といえる。


註 
(1)由井常彦「エピソードが語る・人の三井ー第一回・益田孝ー」三井広報委員会、http://www.mitsuipr/history/colum/042/(2022年2月1日閲覧) (2)森田貴子『三野村利左衛門と益田孝』山川出版、2011年、46頁。 (3)谷端昭夫『茶の湯人物誌』淡交社、2012年、298頁。 (4)神津朝夫『茶の湯の歴史』角川学芸出版、2009年、269頁。 (5)同書、268頁。 (6)野村朋弘『文化を編集するまなざしー蒐集、展示、制作の歴史』藝術学舎、2014年、156頁。 (7)志村和次郎『富豪への道と美術コレクション』ゆまに書房、2011年、188頁。 (8)中島誠之助『中島誠之助先生、日本の美について教えてください』祥伝社、2017年、21頁。

 参考資料・文献 
・神津朝夫『茶の湯の歴史』角川学芸出版、2009年。 ・森田貴子『三野村利左衛門と益田孝』山川出版、2011年。 ・志村和次郎『富豪への道と美術コレクション』ゆまに書房、2011年。 ・谷端昭夫『茶の湯人物誌』淡交社、2012年。 ・野村朋弘『文化を編集するまなざしー蒐集、展示、制作の歴史』藝術学舎、2014年。 ・中島誠之助『中島誠之助先生、日本の美について教えてください』祥伝社、2017年。 ・菊池浩之『最新版・日本の15大財閥』KADOKAWA、2019年。 ・田中裕二『企業と美術』法政大学出版局、2021年。 ・三井広報委員会、http://www.mitsuipr/history/colum/042/(2022年2月1日閲覧)

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