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///展覧会 ///パリへの憧れ/// まもなく開催

皆さん、こんにちは。私たち姫路 三木美術館では1年に4回の展覧会を開くようにし、その折々にあう美術作品を愉しんでいただけるようにしています。次回の展覧会「パリへの憧れ」について少しご紹介させていただきます。開催は2022年8月31日(水)〜2022年11月27日(日)ですのでどうぞお見逃しなく!

「パリへの憧れ」にこめた想い


パリはフランスの首都でありフランス最大の都市で経済、金融、文化がここに集積しています。またヨーロッパにおいても有数の観光都市として名を馳せています。凱旋門を中心に放射線状に伸びるストリート、パリ市を横断するセーヌ川とそこから生まれた運河、そしてその中にルーブル美術館、オペラ座、ノートルダム寺院と数えきれないほどの歴史的な建築物が居並ぶ世界屈指の美しい街です。
1900年代初頭、そのパリのモンマルトルやモンパルナスには各地から画家が集まり、画風や流派にとらわれず自由な創作活動をしていました。ピカソ、ユトリロ、モディリアーニなど。それらの芸術家の集団はエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれていました。日本からは画風を模索する若き画家や美術学校を志す学生はもちろんのこと日本国内ですでに大御所という地位を確立しているような画家さえもパリを目指しました。
パリという街は現在の日本人にとっても大人気の街ですが、近代日本の画家たちは街の美しさだけではなく自由で何か新しいものが誕生する街としてのエネルギーに魅了されていたのかもしれません。そんなパリに魅せられた画家たちの作品を見ていただく展覧会にいたしました。
皆様のお越しをお待ちしております。

展示品の一部をご紹介します


タイトル:上高地 作家名:安井曾太郎

制作年:1938年~1940年頃

京都で木綿問屋を営む商家に生まれた安井氏は、その時代の多くにならい家業のために商業学校へと進むもののどうしても絵画への欲求を捨てきれず、反対する親を説得、中退をして絵の道に進みました。

安井氏がパリを目指すことになったのは、先輩画家の渡欧話に刺激を受けたためと言われています。パリに到着した後、私立の美術学校であったアカデミー・ジュリアンで学び素描コンクールでは首席を収めたこともあったとか。この美術学校は当時としては先進的で女学生や海外からの留学生も受け入れていたので安井氏も飛び込みやすかったのかもしれません。そしてその学校はモンマルトル大通りからサンマルク通りを繋ぐパッサージュに位置していたようです。安井氏はパリがよほど気に行ったのか7年滞在し、その間にイタリアやスペインなどへの旅行もしました。

1914年の帰国後は日本とヨーロッパの風土の違いや帰国前から患っていた病状、絵画を取り巻く環境等でスランプに陥りました。しかし約15年の歳月を経て、コントラストの効いた色彩を重ね黒を効果的に使うことでさらに色彩を引き立てる「安井様式」と呼ばれる作風を確立しました。
「上高地は長野県にある山々に囲まれた日本屈指の山岳景勝地。1938年に中耳炎の静養のため上高地に滞在していましたが、その後再度上高地を取材し多くの山岳風景の連作が発表されました。山を真正面に捉えた重厚感のある作品です」と学芸員の方。



タイトル:下落合風景 作家名:佐伯祐三

制作年:1926年

佐伯氏が東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業したのは1923年。初めて渡仏したのが1924年なので、大学卒業した翌年に学生結婚をした妻と生まれたばかりの子供を伴いフランスへ船で向かったようです。

現地の芸術学校へ通い出すものの1925年に結核を患い、心配した実家の家族の言葉に従い、1926年に一旦日本へ帰国し1927年8月まで療養します。その期間に描かれたのが本作品です。タイトルは『下落合風景』。現在の住所でいうと東京都新宿区中落合。ここはパリへ行く前に購入していたアトリエ付き住宅があった場所で、療養のために帰国した際に過ごしたのもこの土地でした。一時帰国中はこの土地の風景を描く連作に取り組みました。1927年、再びパリへ戻った佐伯氏は二度と日本へ戻ることはなく、1928年に30歳の若さでパリにて永眠します。画家としての人生は5年強。あまりにも短い人生ではありますが、自分の画風を真摯に追求し悩み、迷い、闘い続けた結果です。

ちなみに前述の下落合に母屋はもうありませんが、洋風のアトリエは現在でも残っています。天井にまで届くほどの窓からは優しい自然光がたっぷり入ってくるアトリエです。ここで佐伯氏がパリを想いながら療養をし、『下落合風景』を仕上げたかもしれないと思うと胸に迫るものがあります。ご興味のある方は訪ねられてはいかがでしょうか。


タイトル:CHARTRES 作家名:荻須 高徳

制作年:1958-60年頃 ©ADAGP,Paris&JASPAR,Tokyo,2023 E5297

「荻須氏の作品の中には「『CHARTRES(シャルトル)』の類似作品で『シャルトルの洗濯場』(制作年:1958-60年)があるので同年代に、同様の洗濯場の光景が描かれた作品であると推測されます」と学芸員の方。シャルトルはパリから南西に100キロのところにあり大聖堂で有名な街です。かつてはこういった郊外や村には共同の洗濯場が設けられていました。それは水が湧くところだったり川のほとりだったり。この『CHARTRES(シャルトル)』はフランスならではの厚い雲に覆われた重厚な空気感とともに洗濯場という極めて日常的な風景を描くことで、フランスの田舎の息遣いを伝えています。

荻須氏は1926年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の西洋画科を卒業と同時に渡仏。フランスでは前述の佐伯氏とも交流があり、一緒に写生旅行などにも出ていたようです。第二次世界大戦勃発により日本に帰国したものの終戦後の1948年には日本人画家として初めて渡仏が認められたため再び一家でパリへ行き以後死去するまでの人生をパリで過ごした日本人画家として有名です。

荻須氏がおそらくパリを愛したようにフランスも荻須氏をとても愛し、尊敬していました。「荻須高徳パリ在住50年記念回顧展」はパリ市主催で開催されましたし、フランス国立造幣局は荻須氏の肖像をモチーフにしたメダルを1982年に発行しました。そして84歳で亡くなると予定していた勲章を死去日に遡って贈ったのです。今も荻須氏は愛したパリのモンマルトル墓地に眠ります。
                     [企画制作/ヴァーティカル]


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