雑記 徘徊について

ことしの4月、あまりにも精神状態が悪化しすぎて、もはや自分が何をやっているのかすらわからなくなった。

ふらふらと街中を徘徊して、ふとその状態に気がついて「ん……?何やってんだ……?」と考える。
しかし、よくわからない。全くわからない。どれぐらいわからないのかすらわからない。
20代なのに徘徊老人みたいになっている。

俺は「完全におかしくなったら入院しよう」と思った。
しかしながら、当然のように次の疑問が出てくる。

完全に頭がおかしくなった人間が、自分の頭のおかしさに気づけるのか?

少し考えてみたがこれはケースバイケースだと思った。一方で、俺は俺の能力に全く信頼をおいていないので、自分がおかしいと気づける段階で入院治療をした方がいいと考えた。

そこで少し入院してみたが、結論から言えばあまり良くはなかった。
三重四重ぐらいの抗うつ剤や睡眠薬を整理できたのは良かったが、そもそもの根本原因が入院して消えてなくなる類のものでもなかった。それぐらい考えればよかった(考えられないからこうなったのでは)。

何なら、入院治療費があまりにも高額すぎて(食事代、ベッド代には保険が効かない)経済状況が悪化した。

つまり俺が入院で得たのは、減薬による腎臓と肝臓への気持ち程度の優しさと、「懐具合と精神状態は必ずしも直結することではないがある程度比例関係にはある気がするかもしれないねえ」という感想だけであった。

他の記事でも書いたが、最近は景色に色がついて見えない。自分を動かしているのが全く自分だとは思えない。
例えるなら、すごく使い勝手の悪いコントローラーで動かしているリモコンのおもちゃである。

大きな違いは、現実のリモコンは壊してもゴミを片付けるのがめんどくさいだけだが、このリモコンを壊したらそれ以上に(他の人が)めんどくさいということだ。

そもそも死ぬとか生きるとか、疲れた。とてもめんどくさい。思考を完全に止めることも完全に動かすこともできない中途半端があまりにも醜く感じてしまう。結果的に、行動も思考も徘徊している。

ところで、何となく思ったが、俺は作文とコードを書くことだけは子供の頃から苦ではなかった(他はクソだった)。それは文もプログラムも、チョロQみたいな面白さがあると思っていたからだ。

つまりだ。文章は他の人に何かを伝えることを意図して書く(そうでないこともある)。しかしその文章を他の人が読んだ時、文が必ずしも意図した働きをするとは限らない。感性は人それぞれだからだ。
一方で、プログラムもそれに似ている。コードを書いてコンパイルするわけで、コードを書く段階ではこうしたいああしたいという意図を込めて書くわけだが、必ずしも意図した動作をするとは限らない。

つまりどちらも手元にあるときはコントロールできるわけだが、うごいてしまえばもはやなるようにしかならない。完璧だと思ったものが徘徊しまくって事故る可能性は文章にもプログラムにもあるというわけだ(ここでタイトルとこじつける)。
これはチョロQと似ていると思わないか? 思わない?……なんかもっといい例えがあった気がする。

以上、この何の締まりもない文章書いてみて、特に投稿する必要も感じなかったが、消すボタンよりも投稿するボタンの方がわかりやすいところにあったので投稿することにする。


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