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新川酒飲み散歩#03

昨日は散歩のスタートが遅かったからね、今日は昼過ぎに出た。それで昨日は寄れなかった新川大神宮へ出かけた。
もちろんキンギョのウンコつき(笑)あいかわらずウンコのほうが偉そうにしてる。
「この辺りは家康さんが来る前は、葦簀っ原が連々と繋がる江戸湊の水ッ溜まりだった。江戸中島とか呼ばれてたけど、小魚を獲るくらいしか役に立たないところだった。武蔵野台地の南の外れは今の上野あたりで、そっから先は長ぁい浅瀬だったんだ。利根川/坂東太郎は東京湾に流れ込んでたしね、あの大河が運ぶ土砂が積もりに積もって、広く大きな浅瀬が続くところだった。
家康さんは、最初っから江戸を1000年都市につもりだった。そのために千代田城の南側を精力的に埋め立てた。新川は、ごく初期に道三堀・小名木川と共に埋め立て/開削された地だ。目的は"塩の道"の確保だ」
「塩の道?」
「ん。塩の道、だ人が増えれば塩の確保は必須だ。・・家康さんと一緒に越してきた連中は何万人単位だったからな。江戸湊は寒村だったのが突然小都市になっちまったんだ。だから塩の確保は緊急課題だった。当時、江戸湊で千代田城に一番近い塩田は行徳だった。ここから塩を運ぶために水路を整備したんだ。そのひとつが新川だ。現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐し隅田川に繋がる運河だった。規模は延長約590m、川幅は約11mから約16m。西から一の橋、二の橋、三の橋と三つの橋が架かっていたと記録が残ってる。」

昨日は新霊岸橋を通ったンで、今日は永代通り/霊岸橋を通った。欄干から川筋を見ると貸しボート屋があった。それもカヌーだった。嫁さんが大喜びした。
「いいの?こんなところでカヌー遊びして??すごい」
「許可さえ取ればOKだろ」とは言ったものの、許可そのものが取らなきゃいけないものなのか分からないので、それ以上は言わなかった。橋を渡ってすぐに右に曲がって乗り場まで行ってみると・・日曜日だからか、盛況だった。
「だれでも借りれるのかしら?」
「聞いてみろよ」と僕が言っても「でも・・」とか言って写真を撮るだけだった。
「昔からあるの?」
「いや、僕が知る限りはないな。この傍の津々井にはよく来たんだが、此処のことは気が付かなかった。」
「津々井って、洋食の?」
「ああ、本店がすぐそこにある、新川の神社はその奥だ」
横道を少し入って歩くと、お社が見えた。
「あれだ。新川の酒屋の守り神だ」

「新川大神宮再建由来誌」を転載する。
「新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書『慶光院由緒』並に江戸名所図絵に詳しい。
 当宮は慶光院周清上人が寛永2年(1625年) 徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遙拝所を設けられたのに始まり、其後明暦3年(1657年)江戸の大火で類焼したので、この年替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。
 爾来当地は河村瑞賢が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。
 当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。
 明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋し来ったが、昭和20年(1945年)3月9日の戦災にに罹り社殿を烏有に帰した。
 その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を恢復しつつあるのは全く当宮御神威の賜ものである。
 隅々昭和27年(1952年)が講和条約発効独立恢復の年に当る故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、洽く協賛を全国同業者に求めて同年5月7日地鎮祭、9月5日上棟祭、10月17日竣工遷宮並に例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。
 茲に当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。」

「河村瑞賢という人が建立したの?」
「そういう訳じゃない。新川を開削した人だと言われてる。幕府の御用商人だ。伊東潤の小説に"江戸を造った男"というのがあるが、これは河村瑞賢を主人公にした本だ。私利のためではなく他利のために生きた人だった。材木商人から始まって廻船業にまで手を広げて巨万の財を成した人だ。この近くに彼の功績を讃えた"新川の碑"というのがあるよ」

斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌「武江年表」に拠ると、河村瑞賢は貞享年間(1684~1688)頃に南新堀一丁目に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたとある。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたと記されている。??
ちなみに"武江"とは"武蔵国江戸"のこと。徳川家康が江戸城に入った天正18年(1590年)から明治6年(1873年)までの市井の出来事が編年体で纏められている。

「新川は、霊岸橋の南側の亀島川側から永代橋の南側へかけて霊岸島を掘削して作られた。そして新川から八丁堀へ繋がるルートは、そのまま道三堀、飯田堀へと続いていたんだ。江戸時代、市内のロジスティックは川筋で構成されていたからな。それぞれの川筋には問屋の倉庫が立ち並んでいたんだ。
中でも隅田川に近い新川越前堀には御船手組屋敷が置かれていた。だから霊岸島の南端には船見番所があった。船大工もたくさん暮らしていた。勝海舟が創立した船員学校も発祥はこの地だ。この隅田川に近いという利点を生かして、一番儲かる商売だった酒問屋が多く集まったというわけさ。
これが明治の御代になると、よけいに拍車がかかったんだ。水運のニーズが高まったんだ。
実は幕府は水運の開発にはあまり乗り気じゃなかった。江戸の急所は江戸湾だったからな。大型船が自由に通行できるようにするということは、幕府存亡の危機にも繋がる話だからな。隅田川もほとんど浚渫しなかった。本格的に水運/海運に力を入れたのは明治政府の時からなんだ。
築地に外人居留地区を作ったり、外国大型船のために隅田川を浚渫するようになったのも明治以降の話だ。飯田堀を神田川に繋いだり、八丁堀/新堀を再整備して日本橋川としたり、三ノ橋の南側に日本郵船(三菱財閥)がつくられたり、南には東京湾汽船(渋沢栄一)が社屋を構えたりした。それで霊岸島には汽船発着所が置かれて房総、伊豆半島、大島、八丈島などへの海上航路を整備したりしたんだ」

「なるほどねぇ。でも、霊岸島って面白い名前ね、巌流島みたいな感じ?」
「いやいや、もともとは八丁堀北東にあった霊巌寺に因む名前だ。霊巌寺は明暦の大火の後、神社仏閣の大移動に巻き込まれて深川に移っちまった。名前だけ残ったのさ。まえに話したことあるよな。
両国郵便局は今の両国にはない。昔、本両国という名前だった日本橋側にあるって話。本所郵便局もそうだ。アレの反対バージョンな。本家は移転したけど名前は残ったって奴だな」
んんん~なんか・・ツボはちがうんだけどなぁ~
と思いつつ、半日がかりの新川散歩を終えた。
どうも嫁さんには、水の都東京の変転というのは心の琴線には触れないようだ‥

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました