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ラスコーの谷で考えたこと#05/"繁殖限界値"について

50,000年ほど前に出アフリカ後を果たしたヒトは、個体数2,000体ほどだったものが、40,000年ほどかけて600万人くらいまでに増えたとF.A.Hassanが試算しています。(Demographic Archeology. Academic Press,1981)
彼の試算によると、世界の居住可能総面積9800万km2。このうち61.2%に、12,000年ほど前、ヒトは広がっていたとしています。(人口密度は0.11人/km2)
その平均寿命は25才前後。平均的な子の数は4人。そしてヴュルム氷期が終わることで生存率が高くなり、総人口は907万人程度まで増加したとしています。
つまり、オーリニャック期からグラベット期へ、そしてソリュトレ期からマドレーヌ期まで(地理的な隔たりは有りますが)ヒトらは加速度的に文化的進化を遂げ、生存率を高めて行ったのです。
そして農耕開始のBC6,000年あたりからさらに速度を高め、灌漑技術が確立で作付面積が巨大化すると、人口密度は10.41人/km2へ飛躍的に増え、BC2,000年頃の全世界総人口は4111万人に達したといいます。

云うまでもないことですが、地域ごとの人口密度の濃淡は極端です。
灌漑技術を背景とした古代文明発祥地域は高密度でしたが、狩猟採取中心の生活で個体生存必要食料量(800,000cal/人/年)を得なければならない地域では、相変わらず0.11人/km2を幾らか越える数値くらいが限界値であったと考えられます。そしてその限界値を越えると、グループは分れ、少し離れた別々の場所に住んだはずです。

この原則はボルドー/アキテーヌ地区でも変わりません。
・・ということは、10km四方100km2で11人程度。100km四方10,000km2で1100人程度が限界値ですから、ヴェゼール渓谷で云うならば、此処に住むヒトの数は1000人単位だったろうと推測できます。10人から20人単位のグループが100程度という姿がイメージできます。ちなみにアキテーヌ地域圏は41,310 km2なので、単純計算で4000人程度が、ボルドー全体に住めるヒトらの限界数だったと見るべきでしょう。

40,000年前、この地にまでやって来た彼らは、先ずヴェゼール渓谷という自然の要塞/難所を住む場所とし、外敵から自分たちを守ることから始めました。そして少しずつ知恵と技術を蓄積すると、住む場所を拡大し、渓谷から出て盆地へと広がって行きました。それにほぼ30,000年を費やした。
たしかにB.C.11,000年頃から、本格的な(灌漑技術の萌芽した)農耕がアナトリア周辺(シリアのテル・アブ・フレイラに最古級の農耕跡がある)で始まっていますが、他地域のヒトらは相変わらず狩猟採集文化でした。
ヴュルム氷期が終わり、更新世(約200万年前から約1万年前)から完新世(約1万年前から現在)へと移ったことで、生活環境は飛躍的に良くなり(一時的に気候が寒冷化する新ドリアス期(亜氷期)と呼ばれる期間はあった)道具類は発達し、言語が確立したことで情報の共有/保存が可能になり、技術は伝承されるようになりました。平均的寿命も延びて行ったはずです。しかし面積当たりの居住可能員数は、狩猟採集生活をしている限りは変わらず、この地に住むヒトの数は飽和値である4000人を前後していたと考えられます。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました