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東京散歩・本郷小石川#25/支配者が替わっても地元実力者は変わらない

江戸氏が源氏と共に関東を去ったのち、一時圧倒的に支配地を広げた豊嶋氏も、智者太田道灌の前に三か月で滅んだ。しかしその太田道灌もまた、豊嶋氏滅亡8年後の文明18年に、扇谷上杉定正によって暗殺されてしまう。結局のところ扇谷定正は側近の者誰一人とて信頼できない王だったのだ。

部下を無暗に信用する王は無能だ。しかし部下を信頼できない王は不徳でしかない。王の本質は利でも無ければ力でもない。徳だ。なによりも「囚人のジレンマ」は高能率的なのだが、それに身を委ねるだけの自信を徳の無い者が持つことはない。

太田道灌が謀殺されたのち、武蔵野台地東南の指のように広がった丘は、王を上杉家に替えた豊嶋氏の子孫がそのまま管理した。その姿は熊野那智大社所蔵(文安5年/1448)の「米良文書」に収められている「那智山実報院檀那帳」から窺える。
https://www.amazon.co.jp/%E5.../dp/4797103833/ref=sr_1_6...
これによると、檀那衆として
「としまにてハ三河守 在所江戸 北いい蔵殿 同南いいくら殿 同こはや川殿
いたはし周防 ひやうこ殿 同ひやうこ殿 同弥次郎殿 江戸こう方殿 同在銘をく殿 平つかふんこ殿
牛来てんきう かね杉たくミ殿 さはい坊 在銘 平河ひやうこ 在銘あさかい二郎殿
大え 今ハそうりやう平六殿 在こひなたたんしやう殿 今ハこかハちくう」
とある。このうち「かね杉たくミ」は金杉内匠。「こひなたたんしやう」は小日向弾正であろう。
彼らは土地の実力者として後北条にも仕えた。少し後代の「小田原衆所領役帳」にもその名が確認される。
同書には江戸川の谷をはさんだ向こう側、筑土八幡に牛込城を築いた牛込典郎の名もある。おそらく関口台地は牛込氏の管理下にあったのだろう。また豊嶋氏の本拠だった平塚には平塚豊後の名がある。そして平河の地には平河兵庫が見える。すべて豊嶋氏(秩父氏源流)庶流だ。
では、江戸氏はどうだろうか?熊野那智山御師廊之房が、応永27年(1420)に、その檀那である江戸氏庶流の名字を記した「江戸惣領之流」を見ると・・板倉殿・桜田殿・石浜殿・牛嶋殿・国府方殿・芝崎殿などという名前が見られる。これらの武士の名前を冠した地名は、武蔵野台地を下った平地に多いのが興味深い。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました