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ボルドーれきし ものがたり/1-9 "ケルト02"

欧州大陸を北西へ拡散していったケルト人は、採鉱を能くした人々です。彼らは錫と銅を使って道具や武器を作る人々でした。そしてB.C.4000頃ブリテン島(イギリス)とブルターニュに至ります。ケルト文化はこの二つの地域で大きく開いた。

ところで・・彼らの進出経路を追っていると、どうも彼らは鉱脈を求めて進む道を決めていたように思えてしまいます。当時まだ青銅器は貴重な材料であり、大量生産は出来なかった。錫も銅もそう簡単に手に入らなかった。

しかしブリテン島とブルターニュは、何れも銅と錫の鉱脈が豊かな地区なのです。ケルト人は之を採掘し、同地に後期青銅器文化を築き上げたのです。ブリテン島のウェセック文化、ブルターニュ地方ではアルモリカ文化と呼ばれるのがこれです。

アルモリカArmoricaは、セーヌ川とロワール川とに挟まれた地域(ロワール川河口南のポルニックからコー地方のディエップまでの間)に対してローマ人が付けた名前ですが、文化圏としてはブルターニュ半島も含んでいます。

地中海に生まれた文明が、サントリーニ島の爆発によって大激変し、中心地がエーゲ海の島からバルカン半島南端に移った頃。ギリシャ人たちがアテネに"我が地"を置いた頃。すでにケルト人は中央ヨーロッパ/ブリテン島まで、大きく広がっていたのです。

しかし彼らは、統合された文字を持たなかった。記録することに興味を持たなかった。計算術も原始的な方法で充分だった。彼らは神々と部族長(王)と、そして略奪できる「糧を作る人々」の存在が有れば、それでよかった。したがって組織を大きくするための背景的な技術/記録・計算などは殆ど発達しませんでした。採掘などの技術は、まったくの口伝で伝えられたのです。

もちろんだからといって、大きな文化圏が作れないわけではない。作れないのは「巨大な統合的組織」だけです。

例えば、ブルターニュにあるカルナックなどの、ケルト人たちが遺した巨石群を見ていると「文字なし」でも、言語だけでも、人は偉大なものを多彩に遺せるもんなんだな・・​

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同地は、現在でも色濃くケルトの香りを残した地域で、民族的(ケルト系ブリトン人)な結束が強く、フランス革命によって完全にフランスへ統合された以降も、独自の言語(ブルトン語)と文化を現在まで保持している「フランスで最もフランス的でない地区」でもあります。

此の荒涼の地を"我が地"として、フランク王クローヴィスと戦い、カール2世から独立を勝ち取り、そしてノルマン人の侵略とも果敢に戦った人々・・ケルトの末裔の気質は、まさに荒ぶる神々に奉ろうケルト人の血を強く窺わせますね その南側に位置するポワトゥー・シャラントゥ地方Poitou Charentesあたりもケルト人文化圏でした。
そのポワトゥー・シャラントゥの南端がボルドー/ジロンド川です。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました